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前回、「水みたいな文章」を書くための第一歩は、「一つの文章では一つのことしか言わない」習慣をつけること、と紹介した。

これは、簡単なことのように見えて、難しい。日本人は、昔からだらだらと言葉をつなげて話をしてきた。

 

源氏物語

いづれの御時にか、女御、更衣)あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらねど、すぐれて時めき給ふありけり

 

平家物語

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、たけき者もついには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ

 

もちろん、両方とも文語ではあるが、日本人は滔々とつながる言葉の連続に快感を覚え、その方が良いような感覚を持っていたのだ。

口語文を書くときでも、長々と芋つなぎで書きたいと言う意識を持つ人が多い。

 

しかし、我々は口語文、言文一致体のごく最初のころに、素晴らしい先達を得ている。文章を意味の単位で切ることで、達意になり、しかもいきいきとリズムが生まれることを証明した文豪がいた。

 

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。

 

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。

 

からっと明るい。情景がぱっと浮かんでくる。そして、先へ先へと文章を読み進めたくなる。

 

夏目漱石が「吾輩は猫である」を俳句雑誌『ほととぎす』に連載し始めたのは、1905(明治38)年のこと。「坊っちゃん」は、翌1906年のことだ。言文一致運動が始まったのは1887(明治20)年のことだが、それから20年足らずで、ほぼ完ぺきに口語文を使いこなす天才に恵まれたのだ。

 

その後の日本語の文章は、夏目漱石と言う金字塔を眺めながら発展していったと言ってもよいと思う。芥川龍之介、谷崎潤一郎、志賀直哉などの文豪、言葉の天才たちが、夏目漱石を師と仰いだのも、もっともだと思う。

 

もちろん、すべての作家、文章家が、短いセンテンスでできた文章を書いたわけではない。

谷崎潤一郎は延々と続く文章を書いた。志賀直哉もときには細々とした表現を連ねた文章を書いた。司馬遼太郎は、まるで老人が徘徊するような、だらだらとした文章を書いた。それでも多くの人がその作品を読み、文章を好んだのは、長くなろうとも、横道にそれようとも、文章の純度が失われなかったからだ。

これは才能だと思う。長くなっても論旨を見失わず、適切な言葉を選び続ける。リズム感を持たせる、そして魅力的なストーリーを語り続ける。これこそが、文才と言えるだろう。

 

一つだけ例を引こう

 

私がかつて高野山できいたところでは、維那さんは廟所のなかにいる空海の模様をその法弟や息子にさえ他言せず、代々の維那で他言した人はおらず、そのために空海が生前の姿のままで凝然としてすわっているのか、単に木像があるのか、それともそれらが一切なく、ただ壁と板敷だけの神聖空間があって、ニ度の食事の膳をささげたり、引いたりしているのか、そのあたりのことを維那をつとめた人以外は、一山の誰もが知らないというのである。「知る必要がないんですもの」と笑って私の質問を避けた僧もあり、その避け方の明るさが印象的であった。

 

司馬遼太郎『空海の風景』。

数ある著書の最高峰を成す作品の一つだと思うが、この芋つなぎ。しかし、そのだらだらした文章が、司馬遼太郎の思索の移ろいをそのまま映している。読者は、司馬遼太郎の空想を一緒に楽しむことができるのだ。

 



我々凡人には、こうした文章は無理である。「一つの文章では一つのことしか言わない」習慣をつけるのが先決なのだ。

 

少し回り道をした。次回は具体的な用法について考えたい。


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