NHK大河ドラマ「平清盛」は、いよいよ前半のクライマックス、平治の乱だそうだ。視聴率は上がっているのだろうか。相変わらずセットはリアルだが、お芝居は嘘くさい。
 

いちばん気になるのは、清盛と義朝が互いを「おい、きよもり」「なんだ、よしとも」と呼び合っていること。
 

清盛、義朝という名前は、「諱(いみな)」という。正式の名前、公式の名前だが、親や主君、その名をつけてくれた人(烏帽子親)以外が、この名を呼ぶことはなかった。「諱」は、呼んではいけない名前=忌み名であり、家来でも下級のものは主君の「諱」を知らないこともあった。
 

いくら友人であれ、ライバルであれ、清盛と義朝がお互いを「諱」で呼ぶことはあり得なかった。


では、何と呼んだか。幼いころは幼名があった。清盛、義朝の幼名は不明だが、少し大きくなると「輩行」で呼び合った。長幼の序に従って兄弟を太郎、二郎、三郎とよぶものだ。源氏の長男は源太、平氏の長男は平太だから、十代の頃に二人が合っていれば「おい、げんた」「なんだ、へいたか」と呼んでいただろう。


貴族や武家の子弟の場合、官職が与えられるとその名前で呼ぶ。これを「百官名(ひゃかっかんな)」平清盛は
12歳で従五位下左兵衛佐になっているから、「兵衛佐(ひょうえのすけ)どの」と呼ばれただろう。
義朝は一時期上総の国に身を寄せて「上総殿(かずさどの)」「上総御曹司(かずさおんぞうし)」と呼ばれたが、官職がついたのは
31歳の時。従五位下・下野守、翌年には右馬助を兼ねた。「右馬助(うめのすけ)どの」と呼ばれたはずだ。


ドラマのように、清盛と義朝が幼馴染だとすれば、成人してからも「源太」「平太」と呼び合った可能性はあるだろうが、諱は絶対に口にしなかったはずだ。


「ドラマなんだから仕方がないじゃないか」と思われるかもしれないが、昔はそのあたりもきっちりしていた。また、輩行や百官名を使うと、芝居がリアルになるのだ。
司馬遼太郎は『関ヶ原』という小説で、だんだんと淀殿の信頼を勝ち得ていく徳川家康に「ここは“ないふ”におまかせあれ」と言わせている。「ないふ=内府」とは当時の家康の官職、内大臣のことだ。こう自称させることで、家康の重厚さと狡猾さがにじみ出てくる。


例えば、
30歳になっても無官の義朝と、官職がぐんぐん上がっていった清盛などは、当時の風習で互いを呼ばせるだけで、その身分差をくっきりとだすことが出来たと思うのだが。
 

ところで、なぜ「諱」は、おおっぴらに呼んではいけなかったのか。それは、「諱」で呼ばれることはその人に服従することを意味したからだ。


平安時代中期以後、武士階級が起こって未開の山地を開拓したり、他人の土地を奪ったりして領土を広げると、これを朝廷に公認してもらうときに、いったん中央貴族に領地を寄進し、自らは貴族の臣下になることが多かった。武士たちはそのときに、貴族に自分たち一族の「諱」が記された「名簿(みょうぶ)」を提出した。つまり自分の本当の名を明かすことは、主従の関係を結ぶことを意味したのだ。

のちには、大名が武士を臣下にするときにも「名簿」を出させた。


「名簿」をひとたび提出すると、主君には絶対に逆らえなかった。そこには単なるルールを超えた、呪術的な束縛があった。「諱=本当の名前」には魔力があったのだ。

 

宮崎駿の「千と千尋の神隠し」という映画は、「名前の魔力」が大きなテーマになっている。主人公の千尋は、その名前を湯婆婆に奪われたために、自由を奪われ、支配された。ハクという龍=川の主も「饒速水琥珀主」という名前を奪われたために隷使されていた。

古来、名前は、人の運命を支配するほどに大きな意味合いを持っていたのだ。

 



あなたが平安末期に生まれて、たまたま京の町で平清盛に出会ったとする。なにげなく「おい、きよもり!がんばれよ」と声かけたら、たちまち幅広の太刀で、真っ二つにされることだろう。


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