先週に引き続き、日本人の名前について。

例えば、あなたが朝廷に呼ばれて、御所に行ったとする。門の前で「広尾晃でございます」と叫んだとする。どうなるか。

門衛には「そのようなものは居らぬ」と言われることだろう。

なぜか?「広尾」は、朝廷が管理する「氏」の中に見当たらないからだ。
 

朝廷では「氏(うじ)」という古代から決まった公式の名乗りがあった。大伴、物部、日下部などの古代の名前から、源、平、藤原、橘などの中世のものまで。血族集団としての「氏」こそが、朝廷の家臣=廷臣の証明だった。

そうした「氏」の中でも、藤原氏は中臣氏から8世紀に分かれた新しい氏だったが、繁栄して多くの貴族を生み、誰が誰の系統かわからなくなったので、平安後期から一条、九条、三条、近衛、鷹司などの「家の名前」を名乗った。


源氏や平氏などの武士も、全国に散らばって領地を獲得するとともに、自分の領地(名)にちなんで武田、北条など名字を名乗った。そうしないと、源、平、藤原では、誰が誰やらわからなくなるからだ。

こうして領地(名)にちなんでつけた名を名字という。その方が便利だから、いつのまにか、家の名前や名字の方が通りがよくなった。

しかし、朝廷に官位をもらうときは、「氏」しか通用しない。そのことはみんな知っていて、自分たちの本姓=氏が何であるかは、すごく大事にしていた。


織田信長は「平信長」、徳川家康は「源家康」、武田信玄(晴信)も「源晴信」、上杉謙信(景虎)は「藤原景虎」、伊達正宗も「藤原正宗」となる。


実は、織田氏や徳川氏は、中世に出てきた新手の豪族であり、先祖ははっきりしていなかったのだが、大名となり、朝廷に官位をもらうためには、「氏」が必要だと承知していて、織田氏は、平清盛の子孫、家康は源義家の子孫だとして、それぞれ平氏、源氏を名乗ったのだ。


徳川家康はそういう点でも用意周到で、征夷大将軍になるには「源氏」でないとダメだと知って、本姓が在原氏だと言われる松平から徳川に名乗りを変更した。徳川という名字は源氏(清和源氏)の系図に掲載されていたのだ。


名もなき百姓に生まれた豊臣秀吉は、何とか「氏」を得ようとしたが、あまりにも身分が低すぎたために、難しかった。大金を積んで関白近衛家の養子になろうとしたが断られた。みんなが身分の低い家に生まれたことを知っているから、氏をごまかすこともできない。そこで朝廷に掛け合って「豊臣」を藤原や源と同じ「氏」にしてもらった。


江戸時代に入り、代々家柄によって就ける官職が決定するようになると、「氏」はさらに重要になった。江戸幕府に仕える幕臣でも上位の者は、朝廷から官位をもらうことになる。このときに「氏」がなければその資格を失いかねない。そこで、大名、旗本、御家人は必至で系図を作り、自分たちがどの「氏」に属し、誰の子孫なのかをしっかりとアピールした。


幕府は、そうして作られた幕臣たちの家系図を膨大な本にした。江戸時代に何度か刊行されたが、『寛政重修諸家譜』などを見ると、いかに「氏」や系図が大事だったかがわかる。余談ながら、この本、非常に面白いのでまた紹介する。


一方、和包丁などにも「源兼高」など、ものものしい名前が刻印されている。これは武士とは関係がない。刀鍛冶などの職人は、中世から朝廷と直接関係があった。職人は、大名や貴族を通さず、直接、朝廷から認可をもらうことで、全国を渡り歩いて仕事をすることが出来た。朝廷とのつながりを得るためには、職人にも「氏」が必要だった。だから、源、藤原(藤)などの「氏」を名乗ったのだ。

 

江戸時代までは、百姓や町人階級の人も含めて、多くが自分の先祖を知っており、自分がどの「氏」に属するかを言うことが出来た。もっともその多くは偽系図によるものだったが。

 

明治維新となって、四民平等となったが、その前に明治新政府は一瞬だけ太政官制を敷いていたことがあった。そうなると、「氏」がまた必要となる。板垣退助や山形有朋は甲斐源氏の子孫だとして「源氏」を名乗った。西郷隆盛は熊本の菊池氏(藤原氏系)の子孫なので「藤原氏」を名乗った。


つい150年ほど前まで「氏」「本姓」は生きていたのである。


今、自分の「本姓」を知る人はほとんどいない。また、それを知るすべがある家柄もほとんどない。自分の「本貫(本姓みたいなもの)」を今も大事にする韓国などとは大きな違いだ。

 

あなたは自分の「氏」を知っていますか?知らなければ、天皇によばれた時に困りますよ!なんてね。

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください! ↓