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昨日の朝、生まれたばかりのパンダの子が死んだ。昼過ぎに上野動物園の園長や担当者の記者会見が行われた。ちょびひげの園長は、感極まって滂沱の涙。取材陣のフラッシュの嵐に包まれた。テレビ的においしい景色だった。





「パンダの死」でまっさきに思い浮かぶのは、197994日のことだ。この日、上野動物園の初代パンダのランランが死んだ。このニュースは日本中を駆け巡った。
 

前日に昭和の名人と言われた落語の六代目三遊亭圓生も旅先で急死したのだが、夕刊紙での扱いは、パンダよりもはるかに小さかった。


売出し中の春風亭小朝は「新聞の見出しでは、『ランラン死ぬ。』その横に小さく『圓生さんも』と載ってました」とやって大うけしていた。


落語ファンにしてみれば、明治の寄席を知る最後の大物落語家と、たかが獣一匹とは比較になるはずもないのだが、世間的には79歳の爺と、日本に二頭しかいなかった人気者とでは、圧倒的にパンダが上だったのだ。

パンダは、ただの動物ではない。「パンダ外交」というように、生産地の中国では重要な国にしかパンダを渡さない。しかも、そのパンダはあくまで「貸与」しているだけで、毎年1億円と言われるレンタル料を支払わされるのだ。


確かに、VIP扱いするのもわからないではない。しかし、いい年をした大人が、獣の子が一匹死んだからと言って泣くのは、やっぱりみっともない。


動物を、あたかも人間のように扱い、感情移入して騒ぐようになったのは、ここ30年くらいの現象だろうか。

カルガモ親子の行進にマスコミが群がり、警察が交通規制をするようになったり、川に迷い込んだアザラシに名前を付けて黒山の人だかりが出たり。


ほほえましいと言えばほほえましいが、保護に行政が乗りだしたり、市長がコメントを出したりするのを見ていると「人気者におもねるな!」といいたくなる。


なんだかわからないが、日本人はかわいいもの、珍しいものに異様に飛びつく民族になったようだ。でも、それは、自然保護とか環境保護に直接結びついていない気はする。それよりも犬猫をわが子のようにかわいがる風潮と通底しているのではないか。


トキ、コウノトリといえば、日本の二大VIP野生動物だろう。まるで皇族かなんかのように大事に大事に育て、子孫を殖やそうとしている。そのこと自体は必要なことだ。人の世になって「種」がこの世から次々と消えていくのは、何としても阻止したいとは思う。
 

2009年、まるで腫れ物に触るようにして育ててきたトキが、テンに9羽も一気に食い殺されたことがあった。関係者は衝撃を受けていた。ケージの不備や管理体制が大きな問題になっていた。


しかしテンにしてみれば、網の中にいるのは栄養状態の良いトリであり、格好の餌である。特別天然記念物もへったくれもあったものではない。
 

飼育担当者としては、周辺のテンだのイタチだの、ネズミなどを皆殺しにしたいところだろうが、自然を保護する立場としてはそうすることもできない。


担当の人々には悪いが、人間が勝手にランキングした動物の希少価値、命の価値など、野生動物には何の関係もない、ということを気づかせてくれた点で、ある種痛快な事件だった。


パンダの子が死んだ日も、日本や世界ではおびただしい数の命が奪われている。人もいれば、動物もいる。人の食料として屠畜される動物もいれば、食物連鎖で食われる動物もいる。植物まで含まれば、どれだけ多くの命が失われているだろう。


そうした命と、小さなパンダの子の命には、本質的な価値の上では全く差がないことは、みんなが心の底で押さえておくべき事実ではないだろうか。

 

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