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吉村 昭『冬の鷹』

ずいぶん昔の『ダカーポ』(もうこの雑誌もないが)で、プロのライターが愛読する作家は誰か、というアンケートをしていた。志賀直哉や夏目漱石などの文豪を抑えてトップだったのは、当時バリバリの現役作家だった吉村昭だった。

 

全く無駄のない文章、感情表現を極力抑え、事実を淡々と記述するだけなのだが、ストーリーにいつしか引き寄せられる。
 
とにかく吉村昭は徹底的に対象を調べ上げた。文献や新聞などに当たっただけでなく、江戸時代を題材にしたものであっても、必ず現地を訪れ、事件の現場を歩き、地域の人々に話を聞いた。

 

だから、どんな題材であっても、必ず歴史家さえ知らない新しい事実が含まれていた。そして、歴史的事件が起こった時の天候や、風向き、寒暖などが、ドラマにリアリティを与えていた。


ノンフィクションを描くためには、フィクション以上に事実に迫る必要がある。吉村の基本的なスタンスはこれだった。


司馬遼太郎がどんな題材で小説を書いたとしても、すべて司馬史観とでもいうべき視点でものを見ていたのに対し、吉村昭は私見や予断を一切廃して、事実をして語らしめようとしていた。


吉村昭は小説を書く上で一つの制約を課していたように思う。
それは、常に視線が「今」に固定されていること。「あとから見ればこれが運命の分かれ道だった」的な表現は一切せず、主人公のその時点での考え、思いに完全に同化している。そのために、読者は登場人物と同じ体験をリアルタイムでしているような臨場感をもつことができる。


初期の現代を舞台にした小説も、別趣の良さがあるが、歴史小説を書きはじめてからの迫力は比類がない。

私はすべて大好きなのだが、一冊を上げるとすれば『冬の鷹』を推したい。


殺人事件や歴史的なドラマはほとんどない。『ターヘル・アナトミア』というオランダの医書を杉田玄白、前野良沢という二人の蘭学者を中心とした人々が翻訳していく。その姿を克明に描いたのみである。


中心になったのは前野良沢だったが、杉田玄白はその手柄を独占して、大医学者として栄えた。この二人が老年となって久しぶりに再会する。


(中略)二人はすべての点で対照的だった。

良沢は、肩幅も広く大きな体をしていた。眼光は鋭く、鼻梁の高い顔にはおかしがたい厳しい表情が浮かんでいる。その表情には、人との交わりも排して蘭学一途に日を過ごしてきた学者としての苦しい生活がにじみ出ていた。正式な席にふさわしい衣服を身に着けてはいたが、色はさめ、繊維はすりきれていた。


それに比べて玄白は、脇息にゆったりもたれているので、小柄な体が一層小さくみえた。その顔にはおだやかな笑みが漂っていて、いかにも江戸屈指の流行医らしい風格が感じられた。衣服も上質で、新しく仕立てられたらしく気品のある艶をおびていた。
 
 



日本の文学史に残る美しいシーンだと思う。
 

吉村昭は、人物を深く彫琢するのみで、自らの意見は何も添えない。そうすることで、小説に気品と迫力を与えているのだ。


強いて挙げれば、その本のタイトルだけが、吉村昭の“演出”といえようか。

 

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