このシリーズの最初の方で、武士や貴族は正式の名である諱(いみな)を名乗ったり、呼び合ったりする習慣がなかったことを紹介した。
名前を知られると言うことは、臣従することを意味したからだ。では、日常はどんなふうに呼ばれたのか?
幼いころは幼名で呼ばれた。「竹千代」「八万」など。長男が代々受け継ぐ幼名もあった。
元服して諱を持つと、本格的な仮名(けみょう)が必要になる。官職が授けられるような身分の高い家柄では、その
官職で呼べばよかったが、そこまで身分が高くない家では、「輩行」という仮名を名乗った。
太郎、次郎、三郎というのが輩行だ。ずっと数の順番で続いて、八郎、九郎、十郎のあとは与一郎(与太郎、与一)となる。
落語に出てくる与太郎は、末っ子で年を取ってからできた子だけに、親が甘やかして一人前になれない若者という設定。彼は十一男なのだ。
武士は元服すると、輩行と諱をセットで貰う。
源頼義の3人の息子は、八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光と名乗った。元服をした神社の名前+輩行+諱でワンセット。長くて格好の良い名前になったのだ。
また源氏の長男だから源太、平氏の三男で平三、藤原氏の二男で藤次などと言う名前もできた。
さらに、代々同じ太郎、次郎では紛らわしいので、長男の次男は太郎次郎、長男の長男は又太郎などというバリエーションも出てくる。
輩行はもともと、長幼の順に付けられたのだが、親から子に輩行が受け継がれるようにもなった。四郎の長男が四郎を名乗る家もでてきたのだ。
こうして輩行の本来の意味が崩れてくる。
有名な曽我の仇討では、曾我十郎祐成と曾我五郎時致が主役。兄は十郎の方だ。鎌倉時代初期には、こういう逆転現象も起きている。
民俗学者の中には、曽我五郎の「五郎」と「御霊(ごりょう)信仰」の関連性を唱える人もいる。
源義経は源九郎判官と名乗っている。これは義経が検非違使の判官(三等官)になったことにちなむが、官職と輩行をくっつけるパターンもできてきたのだ。
輩行は、室町時代になると、武士や貴族だけでなく、庶民階級も名乗るようになる。太郎作、三郎兵衛など、いろいろなバリエーションが出てくる。庶民は諱を持たない場合が多かったから、輩行が本名となった。
江戸時代を通じて輩行は、武士階級から庶民まで、広く名乗られた。
明治維新となって、一つの名前しか名乗ることが許されなくなったときに、多くの武士階級は諱を本名にしたが、中には輩行を選んだ人もいた。長州藩主毛利元徳の八男だった八郎は、諱を名乗らず、毛利八郎となった(関西テレビのアナウンサーではない)。後に西園寺公望の養子となり、西園寺八郎。晩年は岳父と疎遠になってしまったが、昭和天皇の良き相談役だった。
総理大臣になった桂太郎は、長州の上士の家に生まれたが輩行を名乗った。彼の子、孫も輩行を名乗った人が多い。
ついでながら、この総理と同じ名前の寄席芸人がいた。洒落である。この桂太郎はあまり売れなかったが、花月と言う寄席の名前を命名したことで知られている。
今も、子供に太郎、次郎と言う名をつける親は多い。恐らく、輩行は男性の名前としては日本で一番長く使われた名前だろう。
岡本太郎は、岡本一平、かの子の長男で太郎と付けられた。女流カメラマンでロバート・キャパの愛人として知られたゲルダ・タローは、パリで太郎と親交があり、名前を拝借したのだ。
イチローは二男なのになぜ一朗?とは、よくいわれる質問だ。輩行と長幼の序の関係が崩れて、もう数百年もたっている。そんな質問はナンセンスなのだ。
父親が「この子はイチロー」と感覚でつけたのだろう。確かに「ジロー」では200本安打は打てそうにない。よくぞ付けてくれたと思う。
そういえば、私の小学校の同級生にも「太郎」君がいましたね。お兄ちゃんがいるにも関わらず。今どうなっているかはわかりませんが、私の知らないところで大業を成し遂げているのかもしれません。