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八百長という言葉は、大相撲が発祥だとされる。『広辞苑』によれば、
 

明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合わせで,常に1勝1敗になるようにあしらっていたことに起こるという。
相撲や各種の競技などで、一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負を争うこと。なれあい勝負。「~試合」
転じて、内々示しあわせておいて、なれあいで事を運ぶこと。「質疑応答で~をする」

このときの相撲某年寄は、伊勢ノ海五太夫だと言われている。時代的には七代目に当たる。元前頭筆頭の五代目柏戸宗五郎だ。この人は平幕で終わったが423884預かり1無勝負と決して弱い力士ではなかった。
 

しかしそれ以上に商才が立ち、マネジメントにも優れていたので、当時の相撲界最大の実力者になった。それだけに、八百長さんも親方の機嫌を取り結ぼうとしたのだろう。


しかし後日、八百長が囲碁の本因坊(十四世秀和か?)と五目置いて碁を打ったことがばれた。わざと勝ちを譲ってもらっていたことを知った伊勢ノ海は、八百長にしてやられたと言いふらした。以後、わざと勝ちを譲ることを「八百長」というようになった。


一説には、八百長は相撲の興行も行っていたが、伊勢ノ海は八百長に興行を高く買ってもらう代わりに、わいろを渡していたという。これも語源だと言われている。


つまり「八百長」は、もともと「勝ちを譲る」という意味と「わいろを取る」という意味が含まれていた可能性もある。


「八百長」という言葉が明治期に成立したことは、注目してよいかと思う。


相撲の世界が興行として確立されたのは、18世紀半ばのことだった。宝暦71757)年10月から、現在まで大相撲の番付は連綿としてつながっている。


しかし、当時の番付の顔ぶれは今とは大きく違っていた。強豪力士は関脇に位置することが多く、その上の大関には体が大きいだけの力士が1、2場所ごとに載ることが多かった。これを「看板大関」という。看板大関は、土俵入りだけで済ませることもあったが、下位の力士などと形ばかりの相撲を取ることもあった。当然、真剣勝負をすれば負けてしまうので、下位力士が適当に価値を譲ることもあったようだ。


当時の本場所の取り組みでは、真剣勝負と、こうした“八百長(そういう言葉はまだなかったが)”が混在していた。


スポーツという概念がまだなかった当時は、真剣勝負も、そうした興行めいた相撲も、同じように受け入れられていた。


力士と役者は兄弟分と言われていたが、相撲と芝居も、同じ興行モノととらえられていたようだ。

講談や落語では「人情相撲」という形で、わざと勝ちを譲る相撲を美談に仕立てることもあった。


しかし、19世紀に入ると看板大関が姿を消していく。そして真剣勝負が当たり前になっていく。


明治初年の相撲界では、すでにわざと負けるような相撲は、表面上は受け入れられないという認識があった。価値を譲るような相撲は、特異な事例となったためにわざわざ「八百長」という言葉をつけたのではないか。


八百長によく似た言葉に「拵え相撲(こしらえずもう)」という言葉があった。これは、双方の力士が申し合わせて相撲を取ることで、勝敗だけでなく相撲の流れや極まり手などを話し合って決めることもあった。


こういう形で、相撲はスポーツに近い、純粋に勝敗を争う競技になったが、「八百長」は以後も消滅しなかった。


なぜなら、大男が全力でぶつかりあう相撲は、きわめて危険な格闘技であり、毎日真剣勝負をしていては身が持たなかったからだ。


今でもそうだが、大相撲は地方巡業やトーナメント大会では、双方が力を抜きあって怪我をしないように相撲を取る。しかし、これを「八百長」と非難することはない。


本場所以外の土俵は興行であり、真剣勝負の場ではないという暗黙の了解があるために、こうしたことが許されるのだ。


相撲界では、一方が勝手に勝ちを譲ることもある。これを「片八百長」という。相手を気の毒に思ったり、自分が負けた方が良かったりする場合にこのようなことが行われる。


明治期までは、水が入ると引き分けになったために、四つに組むとがっちりと動かずに引き分けに持ち込むことを得意とする力士もいた。横綱大砲(おおづつ)がそれで、明治40年には何と99引き分けという結果も残している。大砲は、分け綱と呼ばれた。


大相撲では、何度も八百長の撲滅のために手を尽くしてきた。昭和40年代には、積極的に勝ちにいかないような相撲には「無気力相撲」のレッテルを貼った。八百長とは断定できないが、好ましくない相撲だということだ。大関前の山は、無気力と認定されたために本場所を途中休場し、大関の地位を失っている。明治の横綱大砲の相撲も、差し詰め「無気力相撲」と認定されるだろう。

 

語源としての「八百長」には、「わざと負ける」「勝ちを譲る」「勝ちに行かない」「勝負を申し合わせて拵える」「手加減をする」等の意味合いがあったことと思う。今のニュアンスよりも幅が広かった。

 

この言葉が世間で大きく取り上げられたのは、昭和441969)年に起こったプロ野球の「黒い霧」事件だ。

これは野球とばくに加担したプロ野球選手が、わざと負ける「敗退行為」を働き、永久追放された事件だ。

マスコミは「敗退行為」に「八百長」という名称を添えたために、八百長の定義が狭まった。つまり、賭博に関与して敗退行為をすること、というニュアンスが強くなったのだ。

 

長々と説明をしてきたが、今、「八百長」という言葉には、「永久追放」「社会的抹殺」という厳しい社会的制裁のイメージを伴っている。


今回の広尾晃は、このことに鈍感できわめて安易に「八百長」という言葉を使用したのである。