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司馬遼太郎 『空海の風景』


司馬遼太郎という作家は大好きで、ほとんど読んでいるが、文章のお手本としてはあまりお勧めできない。

私は、文章はワンセンテンスに一つの意味しか書かないこと、短く刈り込むこと、などと提唱してきたが、司馬遼太郎の文章は真逆だ。

 

その極端な例で言うと、紀州藩出身で才余って詐欺漢になりかねまじい型の男がいて、西郷はその男の絢爛たる才幹にまどわされ、新政府に推挙したばかりか「太政官は彼を盟主とし、自分もその下で働きたい」とまで言った。(『翔ぶが如く』より)

 

特に『翔ぶが如く』はこの傾向がひどいが、思惑の赴くまま奔放に筆をあそばせ、時に横道にそれるのが常だった。しかし、それでも病み付きになる面白さ。これこそが司馬遼太郎の「芸」だ。他人には真似できない。

 

最後の小説となった『韃靼疾風禄』、『関ヶ原』、『項羽と劉邦』好きな作品は多いが、一つを挙げよと言われれば『空海の風景』。
 



意外に思われるかもしれない。大部の本ではあるが、英雄が出るわけではないし、ドラマもあまりない。

1200年以上も前に生きた人間、確かな資料も伝聞も乏しく、ただただ神格化された「空海」という人間に迫った作品だ。
 

作者司馬遼太郎が、常にナレーターのように話を進行させる。資料はほとんどない中、かすかな手懸かりから話をつないでいくのだ。司馬は憶測の部分は、断定をせず「○○だったように思われる」と表現をぼかしていく。しかし、それでも空海という異能の人間の姿が、時間の帳の向こうから徐々に表れてくるのだ。


特に最澄との関係。エリート僧として桓武天皇の信頼厚かった最澄と、一介の留学僧だった空海の関係は、大陸で遣唐使船を降りたあたりから徐々に逆転しはじめる。


日本に帰ってきてからの両者の関係は微妙になり、空海の下へ最澄の最愛の弟子が走ったことをきっかけに決裂する。その人間臭さ。


とっつきは悪いが、読みだしたらとまらない面白さだ。


読了した後、私は比叡山延暦寺に残る最澄の書と、高野山金剛峰寺に残る空海の書を見に行ったのだが、粘着質でやや女性的な最澄と、少し底意地の悪い空海の風貌が浮かび上がってくるようだった。

こんな本も、司馬遼太郎以外では書けないだろう。

 

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