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極端にいえば、奈良時代は「東大寺が建立された」という一事で記憶されても良いのかもしれない。仏教のみならず、日本の文化を考える上で、東大寺の建立は重要だ。そしてこの国家的大事業を決意したのが聖武天皇だ。



聖武天皇は大宝元(701)年つまり大宝律令が発布された年に生誕されている。母は藤原鎌足の孫の藤原宮子。御名は首皇子(おびとみこ)。父は文武天皇。天智、天武両天皇からは曾孫にあたる。

645年の大化の改新以来、兄弟である二人の天皇の係累での権力闘争が続いた。天智が崩御して勃発した672年の壬申の乱によって、天武天皇が勝利し権力に座に就くが、686年に崩御。皇位を継承すべき皇子の草壁皇子がその3年後に薨去。皇統は女性天皇が引き継ぐ。聖武天皇の父の文武天皇は、草壁皇子の子で、天智天武両天皇の孫に当たり、皇族の正系として期待を集め15歳で即位したが、病弱のため24歳で崩御。再び女性天皇の時代となった。

そして政府の実権は、天武天皇の孫に当たる長屋王が握る。長屋王は聖武天皇の母方の藤原氏と激しく対立していた。

聖武天皇は、幼少から母系の藤原氏をはじめとする周囲の期待を一身に担っていた。「首皇子」という名前にもそれが現れている。7歳のときに父文武帝が崩御した聖武は、23歳で即位。しかし実権は左大臣の長屋王が握っていた。しかし在位5年目の神亀6729)年に「長屋王の変」が起こり、王は自殺。一族は滅んだ。かわって聖武天皇と縁が深い藤原氏が実権を握る。

若い天皇の周辺は相も変わらない権力が闘争が続いた。長屋王が滅びた後も疫病が流行し、一時は朝廷の主要な官職にある貴族の過半数が死亡するなど凄惨な状況となる。

聖武天皇は、この危難の時代にあって、何とか国家を立て直すために仏教の力にすがろうとしたのだ。

聖武天皇の置かれた立場は、仏教公伝をめぐる権力闘争や外交問題で国家が揺れた時代に政権を担った聖徳太子と似ているように思える。太子と同様に、国家の中心に仏教を据えることで災厄を乗り越えようとしたのだ。

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藤原鎌足を始祖とする藤原氏は、かつては中臣氏を名乗っていた。すでに紹介したように中臣氏は神祇を司る氏族であり、仏教公伝に際しては物部氏とともにこれを激しく排撃する立場にあった。

しかし、中臣鎌足が中大兄皇子とともに大化の改新を行い、藤原氏を名乗るようになってからは、仏教を深く信仰するようになる(鎌足の系統以外の中臣氏は大中臣氏と名乗り、引き続き神祇を司った)。

「これからは仏教の時代だ」と思ったのだろう。藤原鎌足は長男の定恵を出家させ、遣唐使に加えて唐で仏教を学ばる。これは当時としても非常に思い切ったことだった。定恵は帰国後、多武峯寺を建立したが、24歳で死去した。

以後も藤原氏は仏教への信仰を深める。藤原鎌足の死に際して建てられた山階寺が、のちに藤原氏の氏寺、興福寺となる。

藤原氏は蘇我氏を見習うように、皇族と何重もの姻戚関係を結んでいくが、その過程で天皇をはじめとする皇族も、藤原氏出身の母、妻らの影響で仏教に深く帰依していった。

 


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