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このシリーズの初めに、私は達意の文章とは「見方を変えれば、文章を『読ませる』のではなく『見せる』ということだ」と書いた。

文章を書く仕事をしてきた実感で言うなら、世間の多くの人は「文章を読むのが大嫌い」である。

活字離れが問題になる中、新聞や小説など、今もたくさんの「文章を書いた紙」が売れているように思う。しかし、それは読み手と書き手が「相思相愛」になっている場合か、その紙の中に「知りたい情報」がある場合に限られると思う。
 

本や新聞など活字が少なかった終戦直後ならともかく、年間10万点もの書籍が発刊され、雑誌や新聞やフリーペーパーなどなど、恐ろしい量の「文章を書いた紙」が氾濫している今、人は文章を読むことに辟易している。
 

そもそも「読む」という行為は、二次元に書かれた文字の配列を目から取り込み、これを頭の中で再構築して意味を理解するというややこしい行為である。集中力がなければ、どんなに目を皿のようにして文字面を眺めていても、何も理解できない。
 

多くの人が普通の本よりも漫画が大好きなのは、漫画は「見る」本だからだ。漫画の情報の大部分は記号化された「絵」だ。これを見ているだけで、あらかたのストーリーは頭に入ってくる。補足情報として文字が吹き出しなどでついてくるが、これはあくまで添え物だ。私たちは漫画を「読んでいる」というが、ほとんどの場合「見ている」。絵から情報を直接的に頭に投影させて、瞬時に意味を理解している。
 
漫画のほうが一般の本よりもさくさくページが進むのは、その大部分を「見ている」からなのだ。

興味深いことに漫画を読むとき、セリフなどの文字を私たちはあまり読んでいない。文字さえも「見ている」。特に活字ではなく、手書きでエキセントリックに書かれたような書体の場合、私たちは意味を文字からではなく、その形状から把握している。
 

実は文章は、「読ませる」だけでなく、「見せる」ことも可能な情報なのだ。

ずいぶん古い例を引くが、故北杜夫は、若いころ、トーマス・マンに傾倒し、寝ても覚めてもマンのことばかり考えていた。あるとき、街を歩いていた北は、はっとして立ち止まった。自分が何にはっとしたのかしばらく気が付かなかったが、そこには「トマトソース」と書かれた大きな看板が立っていたのだ。

トーマス・マンのことで頭がいっぱいの人間は、「トマトソース」というよく似た文字の配列を見るだけで、すごい反応をしてしまうのだ。

 



人に文章を読んでもらうためには、わかりやすい文章を書くことは大切だ。しかし、それだけでは意図をくみ取ってもらえるとは限らない。できるだけ「読まずに済む」ようにする工夫が必要なのだ。

文章を「見てもらう」ためには、どうすればいいのか、次回から具体的に考えていきたい。
 

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