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ロンドン五輪で活躍した選手たちが帰ってきた。民放、NHK入り乱れての争奪戦が行われ、人気種目の選手たちは局から局へと渡り歩いてインタビュー攻勢を受けることになる。サッカー、体操、水泳、柔道、レスリング、選手たちはメダルをぶら下げて局周りをしている。

こうしたインタビューが面白かったためしがない。どの局も同じようなことばかり聞くからだ。

 

「緊張したか」「メダルを取ってどう思ったか」「誰に一番伝えたいか」「メダルは重いか」「今、何をしたいか」「何が食べたいか」

 

選手の答えが凡庸なのは、仕方がない。極限の緊張状態で試合や演技をする人間の心理状態は、みんな似たようなものだろう。インタビューがつまらないのは、質問がつまらないからだ。

あけすけに言うならば、局側は選手が面白い答えや反応をしてくれることなど期待していない。普通の答えをしてくれればいいのだ。あとはそれを引き取って、アナウンサーなりタレントなりが適当に転がしてくれる。

五輪帰りの選手たちは鮮度がいいから、いるだけで価値がある。別に何を答えてもいいのだ。それよりも、ヘンな質問をして、生放送中に何かトラブルを起こされる方がよっぽど怖い。

かくして、選手たちはどの局でも同じような質問に苛まれることになるのだ。

 



この一事を見てもわかるが、今の放送局は極めて臆病で保守的である。良い番組を作ると言うよりは、番組を自分たちの意のままにコントロールして、無難に、手堅く作りたい言う気持ちが強い。
 

放送事故や炎上を恐れている部分もあろうが、それ以上に、自分たちのマーケティングに合致した番組を作りたいと言う意向が強すぎるように思う。


ターゲットは誰で、売り込みたいのは何で、どのような反応がほしくて、だからどんなタレントを使って、最後はどうまとめるか。広告代理店を経由してクライアントに提案される企画書は、そうしたマーケティング的な意図がはっきり書かれている。それが承認されれば、その意図どおりに番組を作る。視聴率も類似の番組を十分に研究しているから、それなりの計算が立つ。


今、ゴールデンタイムに似たようなクイズ番組、教養番組やトーク番組が並ぶのは、こうした「マーケティングのお勉強」の賜物である。


スポーツ中継でも、民放各局のアナウンサーがやたらと仕切りたがるのは、自分たちが思うような番組にしたいと言う意識が強いからだろう。自局のドラマやバラエティなどの宣伝を盛り込みたがるのも、マーケティング的な発想からだ。しかしそれによって「何が起こるか分からない」スポーツ中継の面白さはかなり殺がれてしまっている。


言ってみれば、商品開発や販売促進と同じようなレベルで番組が作られているのだ。漫然と見ている視聴者の何割かは巻き込むことができるだろうが、面白いはずはない。地上波テレビの視聴率がじりじり下がっているのは、こうしたマンネリズム、飽和した感覚によるのだろう。


こうしたテレビの意向を反映して、タレントたちも物わかりが良くなっている。M-1R-1で上位に進出する芸人たちの芸の多くは、事前に十分に仕込みをして、自分たちの動きも周到に計算した「仕込み芸」である。昔の「天然」といわれた芸人は、なかなか上位に上がりにくくなっている。ここでも手堅く、破たんがない、無難な芸が上位に来ているように思う。


テレビは昔、クリエイティブで売っていた。世の中にないもの、経験したこともないものを我々に提示することで、新しいニーズを喚起し、人々の好奇心をわがものにしていた。マクルーハンの言う「テレビは社会の窓」とは、まさにそういうことを言うのだろう。


しかし今のテレビは、視聴者の顔色をうかがっている。視聴者が望むものを先取りして、少しでも多くの支持を得たいと思っている。こう考えている時点で、テレビはすでに時代から遅れていると言えるだろう。


「五輪の中継も良かったが、帰国後のアスリートたちの横顔を追った番組はもっとすごかった」とか「この局が制作した五輪番組は、他局のものとは全く違っていた」とかいう評判が立つ番組は、民放には全くなかった。


2016
年のリオ・デ・ジャネイロ五輪では、ネットで五輪中継を見る視聴者は遥かに多くなり、地上波が果たす役割はより小さくなることだろう。

 

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