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聖武天皇による仏教を中心とした国創りは、中国に範を採ったものだった。全国に国分寺、国分尼寺を建立するという政策は、聖武の時代より30年ほど前、唐の朝廷を一時的に簒奪した武則天(則天武后)が中国全土に大雲経寺を建てたことに倣っている。この当時も、中国は手本であり、仏教も中国から伝わる教えが良いとされていた。留学僧や渡来僧が重んじられたのだ。

玄昉はそんな留学僧の代表だ。空海の母方の家系である阿刀氏の出身で、義淵の弟子となり、遣唐使船で中国に渡り仏教を学んだ。大変優秀で当時の玄宗皇帝の覚えもめでたかったと言われている。5000巻の一切経を抱えて帰国。中国の最先端の仏教を学んだとして、聖武天皇に重用される。

しかし、不遜な性格で、宮廷に敵を多く作った。中でも藤原氏と対立し、ついには藤原広嗣の乱を引き起こした。この争いでは勝利者の側に付いたものの、復権した藤原氏の攻勢にあって失脚した。



その後も仏教の興隆とともに、政治の世界に影響力を持つ僧侶が出現する。有名な道鏡もそうだ。道鏡は仏教布教に反対した物部氏の一族だった弓削氏の出身。あまり力のない下級豪族だったが、義淵の弟子となり、兄弟子にあたる良弁の教えを受けて僧侶として頭角を現す。

そして聖武天皇の崩御後、一時帝位に就いていた孝謙上皇(のち称徳天皇)の信任を得て朝廷の実権を握った。一族の弓削氏は一躍朝廷で高い官位を得るようになる。ついには皇位の簒奪まで考えたと言われるが、称徳天皇の崩御とともに失脚した。

聖武天皇は、仏教によって平安な世の中をと考えられたが、当の仏教の担い手が騒乱の当事者になってしまったのだ。

玄昉や道鏡だけでなく、東大寺、興福寺などの僧侶の勢力も強くなり、政治にも度々干渉するようになった。

8世紀末、桓武天皇が奈良から他の地へ都を遷そうと考えられた背景には、権力を持った奈良仏教の弊害もあったと言われている。

 
玄昉、道鏡の師である義淵が学んだ奈良市の元興寺(極楽坊)

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奈良時代に活躍した僧侶の多くは、義淵(643728)の弟子であると名乗っている。今ではあまり知られていないが、義淵は、古代の日本仏教史において偉大な業績を残した僧侶だ。

義淵は玄昉と同族の阿刀氏の出身だといわれている。だとすれば空海とも血族になる。阿刀氏は天武天皇とのかかわりが深かったようで、幼時から天武の皇子らとともに育ち、長じて元興寺の智鳳に仏教(法相宗)を学ぶ。のちに僧正となり、仏教の指導者として多くの門弟を育成したとされる。

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中には本当の弟子かどうか怪しいものもいるが、奈良時代前半においては義淵の門弟であることが、エリート僧侶の条件だったようだ。

 

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