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注意深く話をしないといけないと思うが、幼児虐待のニュースを見るたびに思うのは、「家族」の大切さだ。我が子を傷つける親の多くは、家庭的に不幸だったケースが多い。

わが子の虐待を行う親は、多くが自分も親から虐待を受けていた。暴力を振るわれていなくとも、家庭内に対立があったり、ネグレクト(放置)があったり、異常な場合が多い。

こういう家族を「機能不全家族」というそうだ。

親同士が不仲であったり、経済的に苦しかったり、アルコールや薬物依存だったり、その状況はさまざまだが、共通するのは、家族の主たる構成員である「親」が、家族のことを大切に思っていないことだ。家族よりも「自分」、パートナーよりも「自分」、わが子よりも「自分」。どうしてそう思うかというと、実はこの人たちもそんな家庭で育ったからだ。根は深い。
 



「家庭」というのは一時的な恋愛感情や、好悪の情だけで維持できるものではない。「家族」が大事だという認識がお互いにあって、譲り合うところは譲り合いながら維持していく意識がなければ、長続きはしないのだ。なぜ「家庭」が大切かと言えば、一義的には「子ども」が育つゆりかごだからだ。今の日本では、人間の子どもは、「家庭」で育つのが普通だ(もちろん例外はある)。
子どもという大人とは別種の生き物は、外海のような大きな「社会」では生きていくのが難しい。巣立つまでは「家庭」で育てる必要があるのだ。
その認識が十分に育っていない大人が結婚をして、子どもを儲けると、不幸な状況に陥ることが多いのだ。

 

ライオンの社会は、一頭のオスと複数のメス、その子供が群れの単位となっている。時折外部から他のオスが侵入し、群れの主のオスを駆逐することがある。新しい群れの主となったオスは、メスの子どもをすべてかみ殺す。するとメスは発情して子どもを産むことができる体になる。「母」は子どもを殺されると「メス」に戻るのだ。

児童虐待の多くは、母親が父親と別れて、新しい男と同居することで起こっている。これは、ライオンの生態を想起させる。新しい男は「オス」であり、「メス」だと思って女と一緒になる。しかし彼女は子どもがいる。「母」である。「オス」には、それが不満なために子どもを虐待するのだ。要するに、人間レベルの話ではない。子殺しをする親を「畜生」というのは、故なしとはしない。

こういう形で子連れのままに新たな恋愛をする女性、そして子連れを承知で軽々しく一緒になる男性の多くは、やはり「機能不全家族」で育ったケースが多い。

そもそも「家族」「家庭」に関する固定観念が植え付けられていないか、おかしな形で植え付けられたために、自分たちがやっている行為がノーマルなのか、アブノーマルなのか、理解できない場合も多いのだ。

 

実のところ、「家族」「家庭」の概念は、それほど確固としたものではない。

平安時代には男女ユニットの「家庭」という概念はなかったし、昭和戦前までは資産家などは「畜妾」することが普通だった。他人や祖父母など多世代で生活する「大家族」もついこの間まであった。

今のような「核家族」はサラリーマンが社会の主要な構成員となった戦後に確立したものだ。それは地域社会が衰退し、コミュニティの子育て機能が無くなる中で、より家族の強固な結びつきを必要とするものだ。

年功序列や終身雇用を基本とするサラリーマン社会の崩壊、貧富の格差などによって、「家庭」は今、崩壊の危機にある。深刻なのは、「家庭」に代わる「子育て」の場がないことだ。

結婚しない男女の増加、出生率の低下はこうした状況によるところが大きいのだろう。

 

誤解を招くかもしれないので言い添えるが、「機能不全家族」で育った人、離婚した人がすべて問題行動を起しているわけではない。その中でもごく一部の人が、悲劇を招いているのだ。

ただ、不幸な家庭で育っても健全な家庭を築いている人は、「家庭を維持しよう」という意識を強く持っているのだと思う。責任感や意識の強さが、逆境を跳ね返しているのだと思う。

反対に、ごく普通の家庭に育っても、自ら「機能不全家族」を作ってしまう人もいる。これも「意識」の問題だ。

 

昔はいざ知らず、現代の日本人は、「家庭」でしか子育てができないことをもう一度認識すべきだと思う。

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