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昭和の時代、私の同僚の中には「今日もお姉ちゃんのお尻さわってきた」という営業マンがいた。「捕まるぞ」というと「相手も喜んでるし」と平然と言ったものだ。

昔は、女性に対する性的犯罪には非常に寛容だった。暴行事件が起こって女性が勇を振るって警察に届けても、交番で「犬に噛まれたと思った方がいいよ」と言われることが本当にあったというのだ。

西武電鉄の創業者の堤康次郎は、近江商人の出で、一代で西武電鉄を核とする財閥を作った大実業家だ。衆議院議長も務めて軽井沢を開拓したり、プリンスホテルを建てたり、その業績は巨大だった。

 

しかし、同時に堤は「女性の敵」でもあった。郷里の滋賀県から行儀見習いのために、多くの若い女性が屋敷に上がっていたが、堤康次郎は片っ端から手を付けた。昔のことでもあり、堤は雲の上の存在だったから、女性やその家族は泣き寝入りをするしかなかった。堤家を継いだ子どもたちの母親が全部違うのは、そういう堤の所業によるものだった。

 

昔は、「畜妾」が、男の甲斐性とされごく当たり前に行われていた。落語にはそんな話が無数にあるが、要するに結婚した男性が、家庭外に他の女性を囲うのは普通のことだったのだ。

昔の結婚は恋愛ではなく、親の取り決めに拠ることが多かった。夫婦の目的は継子を作ることと家の維持であり、夫婦間に愛情が伴わないことも多かった。だから、男は家の外に女性を囲ったとされるが、「じゃ、私も」といって妻もそんなことをしてよいわけではなかった。男だけに認められていたのだ。また、男の目的が、「愛情を得るため」ではなかったことは、明白だ。

 

身勝手な男の行動が、家族にどれだけ深刻な苦悩を与えたか、は言うまでもないことだ。ただし、そういう境遇に育った男性が、ほぼ間違いなく親と同様の行為に走ったのも事実だが。

 

昔の社会は「男の欲望」に対して極めて甘く、緩やかにできていたのだ。「男尊女卑」の核心はそこにある。女性は男性の欲望の対象であり、そこに価値があると考えられてきたのだ。

こうした価値観と、「人権」が相容れないのは言うまでもない。

 

ほんの少し前までの、痴漢や性犯罪に対する驚くべき寛容さは、結局のところ「男尊女卑」に行きつくのだと思う。

昔のオフィスでは、女性のお尻や体をさわるのを「コミュニケーション」と称する男がたくさんいた。本気で「サービスでやっている」という人間も多かった。しかし、それは「文句が言えない弱い立場の女性」に対してだけ行っていた。

 

JR西日本の執行役員がJR阪和線の車内で痴漢行為をしたとして逮捕された。冤罪の可能性は十分にあるとはいえ、被害者の女子高生は「何度か体をさわられて、顔を覚えていた」と語っている。私はこの電車で通勤していた時期があるので、状況はわかる。わずか1駅の間だが、非常に混雑する。執行役員が言うように「背中か尻に腕が当たったかもしれないが、痴漢はしていない」という可能性もあろうが、偶然を装って被害者に体を寄せていくことも不可能ではなかっただろう。

 

最近、痴漢の冤罪の話が良く出てくる。確かに女性が男性を陥れようとするケースもあるのだろう。しかしながら、いまだに女性を欲望の対象とみなす人間も数多くいるのだ。そうした人間が、世の中をよくすることはないだろう。堤康二郎とまではいかないにしても、自分の欲望、権勢のために力を振るうだけだろう。

 

性犯罪の厳罰化は、良いことだと思う。これまでがおかしかったのだ。日本人、特に男性の意識の転換を図るためにも、どしどし進めてほしい。

 



これも昔の話だが、昨夜浮気をしたことを私に得意げに話す男がいた。その男は手帳に妻と子どもの写真を貼っていて、子煩悩で知られていた。

私は嫌われると思ったが「それって、お前が日ごろ可愛いと思っている嫁さんや子供が寝ている家に、放火するようなもんだと思う」といった。男は押し黙った。

 

不倫=インモラルと言われる行為は、文学の大きなテーマでもあり、無くなることはない。しかし、文学でテーマとなるのはインモラルに苦しむ男女の姿であって、あたかも武勇伝のように話す男ではない。

性犯罪、不倫が恥ずべきことだという認識がない男は、文明、文化の外にいるということを認識すべきだと思う。



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