昔から知っている漫才師で、今、注目しているコンビがいる。海原やすよ・ともこだ。通称「やすとも」関西以外の人にはなじみがないかもしれないが、中堅クラスの姉妹漫才師だ。
ともこの方が姉。二人とも四十がらみ。中年太り気味。話題は子育ての事、旦那の事、ショッピングや家事など。とりたてて面白いネタとは思えないが、姉のともこが、どんな話題でも思い切りはじける。それをやすよが、テンポよく受ける。陽気でウィットに富んで、いつの間にかどんどん引き込まれてしまう。
このコンビは関西の中年以上にはなじみが深い。
彼女たちは、一世を風靡した女流漫才師、海原お浜・小浜の小浜(太った方)の孫なのだ。やすよなどは、ぽちゃっと太って愛嬌があって、祖母にそっくりだ。
その上に、二人の父、つまり小浜の息子は、海原かけるの名前で漫才師として売り出していた。相方はめぐる。かける・めぐるは、テンポのあるしゃべくり漫才で、若手ではいいところまでいっていた。
解散して、めぐる(小さい方)は、吉本新喜劇に転身し池乃めだかになった。今や大看板だ。かけるは手品師になったが、同じ手品師仲間の女性と結婚して、やすともの姉妹を儲けたのだ。
お浜・小浜の漫才は、いつもぶりぶり怒っているお浜(小浜には叔母に当たる)を、小浜が揶揄し、最後は思い切りこき下ろすパターン。結構毒があったが、やすともにはそんな毒もない。二人で本当に楽しそうにしゃべくりを繰り広げる。その滑らかさ、自然さは、さすが三代続く漫才師の資質を感じさせる。
しかし彼女たちの漫才が楽しく聞きやすいのは、技術があるだけではないと思う。
関西ローカルで「やすとものどこいこ!?」という番組がある。いわゆる街ブラ番組だ。やすともが街をぶらぶらして買い物をし、喫茶店でお茶を飲む。それをそのまま録っているだけなのだ。しかし、素顔の彼女たちは、本当に気立てが良い。
番組では視聴者にプレゼントを買うのだが、これを選ぶときに「誰に当たるかわからへんから、色は無難なのにしとこ」とか「分けやすいように小袋にしとこ」とか、ごく自然に気配りをする。店で試食をしても、「試食だけで買えへんかったら悪いやん」と気を遣う。
これが本当に自然なのだ。
彼女たちの漫才が楽しいのは、素顔の二人が本当に気立てが良いからだと思う。
吉本の芸人には、面白いかどうかは別として、一種の怖さをはらんだ人がたくさんいる。攻撃的だったり、アナーキーだったり。ハングリー精神や上昇志向の裏返しなのかもしれないが、育った境遇をも感じさせる。
また二世芸人の中には、客や世間に媚びはするが、言動の端々に傲慢さや、わがままさをにじませる連中もいる。
お金持ちの子どもとして贅沢を覚えさせることは難しくないだろうが、芸人として身に付けるべきことをきちっとしつけるのは案外難しいのだと思う。
きつい言い方をすれば「お里が知れる」という思いがする。
しかしやすともには、そういう辛い部分が全くない。
もともと「何としても売れなければ」と思っていないからおっとりしているのだろうが、それとともに人を不快にさせない所作が自然に身に付いている。
あるいはこれは「海原の芸」なのかもしれないと思う。
勢力は小さいが、綺羅、星のごとき漫才師がいる。海原千里万里の全盛期の人気の凄さは今も語り草だ。
この漫才師たちに共通するのは、人を不快にするような攻撃性の強い、刺激臭のある芸をしないことだ。くさすとすれば相方だけ。そして最後は和気あいあいと終わる。しかもしゃべくりとして本格派。
秋田實、足立克己、中田明成など漫才作家の大家にかわいがられて、良い台本を与えられてきたという共通点もある。
やすともは、祖母や父から漫才の手ほどきを受けたのではなく、中田カウス・ボタンの弟子ではあるが、「海原の芸風」をそのまま受け継いでいると思う。
これからも海原やすよ・ともこは、派手に売れることはないかもしれない。しかし、円熟味を増すとともに、漫才の至芸を担う存在になっていくのではないか。祖母たちや、いとしこいし、ダイマル・ラケットのようになるのではないか。
漫才という芸能は変化することによって時代の空気を吸い込んで生き延びてきた。「古典」という言葉は似つかわしくない。しかし、やすともには、例外的に本格の趣がある。
ずっと見ていきたいと思う。
(ザラメ系統の砂糖しか売ってない)
あのホワイトチョコみたいなのを入れるだけで硬化回避できるなら欲しいと思っていたところ。