足利高氏は、北条得宗家と姻戚関係のある家柄に生れ、北条氏以外では鎌倉幕府で最も重用された武将だった。元弘元(1331)年後醍醐天皇が笠置で2度目の挙兵をしたときには、尊氏は鎌倉方の大将として後醍醐の倒幕を挫いた。

元弘31333)年、後醍後が3度目の倒幕の動きを起すと、高氏はまたもや幕府軍の大将として西国に向かうが、その途次、丹波国で後醍醐方に寝返った。これが契機となって各地の御家人や地方豪族層が雪崩を打って倒幕に走り、またたく間に鎌倉幕府は倒れ、北条氏は滅亡した。足利高氏は、倒幕の最大の功労者だった。後醍醐天皇は自らの諱尊治の一字を高氏に与え、足利尊氏と名乗らせた。

鎌倉幕府を倒して成立した後醍醐天皇による親政、のちに建武の新政と呼ばれる新政権は、高い理想に燃えていた。しかし、その理想は、醍醐天皇が親政を敷いた時代への復古であり、あまりにも現実とはかけ離れたものだった。そのために武家の不満はあまりにも大きく、建武21335)年には足利尊氏は離反する

以後、足利尊氏と後醍醐天皇は不倶戴天の敵となった。南北朝と言う形でともに天皇を頂いた両陣営は、半世紀以上に渡って死闘を繰り広げた。

しかしながら、足利尊氏個人は、後醍醐天皇に対して終生尊崇の念を抱いていたとされる。武家側の総大将の地位についてはいたが、実質的に内部を取り仕切っていたのは弟の足利直義であり、尊氏は、ともすれば後醍醐に弓を引くことを躊躇するような弱い一面があったようだ。

延元41339)年後醍醐天皇が吉野で崩御。足利尊氏には大きな衝撃だったようだ。尊氏は、当時深く帰依していた禅僧夢窓疎石(1275-1351)の勧めに従って、嵐山の地に後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を開いた。

この禅刹は、足利尊氏が属する北朝方だけでなく、敵の南朝方の戦没者も追悼する寺院だった。

実は、この寺院の開山となった夢窓疎石は、鎌倉幕府の執権、北条政村の孫(娘の子)に当たる。疎石は、自らの一族の滅亡を目の当たりにし、さらに短期間で権力が入れ替わり、多くの人命が失われるのを見てきた。天龍寺には、夢窓疎石の平和の願いも込められていたのだ。

この天龍寺の建立が契機となって、鎌倉幕府に続いて室町幕府の権力者も、禅宗(臨済宗)を手厚く庇護するようになる。

 
足利尊氏が創建した天龍寺の法塔(はっとう)

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天龍寺は、亀山天皇の離宮のあとに創建された。現在の天龍寺の境内は、大堰川畔に広がっている。現在でも十分に広大な面積ですが、かつては、嵐山全体が天龍寺の寺域だった。境内の子院(塔頭)は、150か寺を数え、千人を超す禅僧が暮らしていた。

天龍寺は国家が定めた禅寺の中でも最上位とされ、最高の権威を誇っていた。

しかしながら、さながら街のようであった天竜寺は、たび重なる戦乱と火災によって、見る影もなく衰えた。幕末には、蛤御門の変によって焼け野原となった。明治に入って再建された。夏目漱石も、明治末年に天龍寺を訪れている。

開山夢窓疎石は、作庭家としても才能を発揮したが、曹源池を中心とした天龍寺の庭に、わずかながら創建当時の天龍寺の面影を見ることが出来る。

 

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