日蓮宗の祖師、日蓮の入滅後、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持という6人の高弟が教えを継いだ。これを六老僧という。

このうち、日興と日向は考え方の違いから反目。日興は身延山久遠寺を降りて、駿河富士宮に大石寺を開いた。これが、現在まで続く日蓮正宗の流れ、つまり、平成91997)年まで創価学会を含む巨大な法華講を有した宗派だ。

六老僧は、独自の布教活動を通じて多くの寺院を建立し、日本中に壇信徒を増やしていった

当初は、日蓮以来の他宗を攻撃する過激な活動によって、朝廷や幕府からは警戒される宗派だったが、日朗門下で後に日蓮の直門に転じた日像(1269-1342)が、京都で布教を開始。建武元(1334)年に、妙顕寺が後醍醐天皇の勅願寺となり、朝廷や幕府にも受け入れられる宗派となった。ある意味で世俗化したと言えよう。

鎌倉武士や商工業者などは、日蓮宗の明快で論理的な教えに魅力を感じたようだ。他の宗派と同様に、庶民階層も含めて幅広く広がっていった。その過程では、敵視していた浄土宗などとも共存することもあったようだ。

しかし、室町時代中期に現れた日親(1407-1488)は、宗祖日蓮の行動に立ちかえり、他宗を激しく攻撃するとともに、過激な折伏を展開した。日蓮宗は、室町幕府とも良好な関係を保っていたが、日親は、六代将軍足利義教に対し、他宗を棄てて日蓮宗に帰依せよと説いて激怒された。足利義教は、もとは天台宗のトップである天台座主だった。当然、比叡山延暦寺の支援を得ていたから、他宗を棄てることなど思いもよらないことだったのだ。

日親は、以後の布教を禁じられる。しかし、これにひるむことなく布教を続けたため、日親は捉えられ、熱く焼けた鍋を頭にかぶせられるなどの拷問を受けた。しかし、日親はこうした弾圧に屈することなく布教を続けた。

日親は、「不受不施」という考え方を打ち出した。

この当時の僧侶は、宗派の区別が明確ではなかった。人々も、宗旨の別には頓着することなく布施を与えるのが常で、日蓮宗の僧侶もそれを受けていたが、日親は「自分の宗派の信者以外から施しを受けてはならない」という厳しいルールを定めた。日親はまさに日蓮宗の過激派であり、原理主義者と言っても良いかもしれない。

「不受不施派」は日蓮宗の間でも少数派だったが、権力者に全く屈しなかった。そのために、幕府はこの一派を警戒し、江戸時代初期にはキリスト教とともに邪宗門とされ、弾圧を受けた。しかし、その弾圧に耐えて明治維新まで生き延びたのだ。今もこの宗派の寺院は少数ながら存在する。

日親が開いた京都市上京区 本法寺

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日蓮宗は、室町時代には京都の町で大きな勢力となった。もともと日蓮宗は、比叡山延暦寺とは関係が良好な方で、その膝もとでの布教活動にも大きな妨害はなかったようだ。

京都には、大本山妙顕寺、大本山本圀寺、本山妙伝寺、本山頂妙寺、本山本満寺、本山妙覚寺、本山立本寺などの日蓮宗の大きな寺院が立ち並んでいる。これらはいずれも中世中後期に建立された。これらの寺に帰依したのは、主に武士階級と庶民だった。

天文元(1532)年から始まった一向一揆と日蓮宗(法華一揆)との騒乱では、京都の町衆は日蓮宗に加担、これを撃退し、4年に渡って京都の町は日蓮宗の支配下となった。しかしこの頃から延暦寺との関係が悪化し、天文51536)年には、敗退した。これを天文法華の乱と言う。



日蓮宗も、他の宗派と同様武装化し、戦国時代を生き抜くことになったのだ。

 



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