応仁文明の乱を経て、戦火は全国に広がり、戦国時代となった。戦国大名は、出自で分ければ3つに分類できる。

一つは、守護大名から生き残り戦国大名へと転身したグループ。甲斐の武田氏、駿河の今川氏がその典型。公家から転身した四国の西園寺氏、一条氏などもこのグループに近い。

次は守護大名の被官(家来)や有力豪族から下剋上で戦国大名となったグループ。応仁文明の乱を経て、守護大名が没落し、代わって実権を握った武将達だ。越前守護斯波氏の被官だった織田氏、越後守護代長尾氏出身の上杉謙信、それに三河の豪族松平氏(徳川氏)などがそれにあたる。

最後は、名もない庶民から徒手空拳で成りあがったグループ。美濃の斎藤道三、大和の松永久秀などがその代表。豊臣秀吉は戦国大名ではないが、このグループだ。

戦国武将と寺院のかかわりは多様ではあったが、守護大名から転身したグループは、中世以来の仏教の権威にすがろうとした。武田晴信(1521-1573)は臨済宗の長禅寺で得度し、信玄と名乗った。信玄は比叡山延暦寺から大僧正の位を与えられていた。それだけに、織田信長の比叡山焼き討ちには激怒したようだ。今川義元(1519-1560)も、一時は禅宗の僧侶であった時期があり、臨済宗に深く帰依していた。

第二の下剋上グループは、神仏への寄進の見返りに自らの武運長久を求めるなど、現実的な対応をする傾向にあったように思われる。上杉謙信(1530-1578)は、曹洞宗の林泉寺に帰依していたが、同時に毘沙門天を守護神とし、高野山で伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の法位を得た。神仏の加護を得ようとしたのだ。徳川家康(1543-1616)は、若い頃に今川氏の菩提寺臨済寺で禅宗に帰依したが、のちに浄土宗の門徒になる。家康は信心と言うよりは仏教勢力のコントロールに腐心したようだ。

第三の成りあがりグループ。斎藤道三(1494-1556)は、最近の研究では京都の日蓮宗妙覚寺の僧侶から成りあがり美濃に一大勢力を築いた長井新左衛門尉の子とされている。自身も日蓮宗常在寺で出家するが、仏教に深く帰依した形跡はない。もっぱらリアリストとして行動したようだ。松永久秀(1510-1577)に至っては、東大寺の大仏殿を焼くなど、仏教を信仰した形跡はない。

中世の権威そのものであった仏教に対する姿勢は、戦国大名個々で異なったが、より体制側に近い上流階級に生まれた武将ほど、仏教への帰依は深く、反対に下剋上によって台頭した武将は、仏教、寺院には一定の距離を保っていたように感じられる。

仏教が体制側から先に教えが広がり、下の階層には遅れて広がったことを考えれば当然のことだろう。

今川氏の菩提寺 臨済寺 静岡県静岡市
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武田氏、今川氏など守護大名出身の戦国大名は、領国に臨済宗の有力な寺院を建てた。武田氏の菩提寺である慧林寺、今川氏の菩提寺、臨済寺などだ。こうした寺院は、大名の一族や家臣団の統合の中心だったが、同時に家督争いを避けるために、戦国大名の諸子を出家させる「門跡寺院」的な意味合いもあった。

臨済寺も、今川氏親の子である栴岳承芳のために建てられた寺院だった。氏親が嫡子氏輝の家督相続を確実にするために、弟の栴岳承芳を出家させたのだ。しかし氏輝は、父氏親が没すると、器量に勝る栴岳承芳を政治向きに参画させた。

天文51536)年、今川氏輝が没すると、栴岳承芳を還俗させて家督を継がせようとする一派と、弟でやはり藤枝の遍照光寺の住職となっていた玄広恵探を推す一派が対立。ついに内乱となる。これを「花倉の乱」という。

乱は栴岳承芳派が勝利。玄広恵探は自害した。栴岳承芳は、還俗して今川義元と名乗った。

織田信長に桶狭間の戦いで討たれた今川義元にもこんな血なまぐさい過去があったのだ。

なお、この臨済寺では若き日の徳川家康も教えを受けている。

 




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