「野球の記録」のブログで、イチローの「日米通算」記録を、あたかもMLBの公式記録と取られかねないような報道をするメディアに対して「犯罪的」という言葉を使ったところ、「言い過ぎだ」という声をたくさんいただいた。私としてはむしろよく思いついたという気がしている。

こうしてブログを長くやっていてしみじみ思うのは、「みんなテレビが大好きだ」ということだ。テレビの話題にはすぐに飛びつくし、テレビに出ている人については興味津々だ。

アナウンサーやキャスターなど、私は「ただの会社員」だと思うのだが、高学歴で、容姿端麗なうえに血筋も良い人がそろっているから、タレント以上にあがめたてる人もいる。

要するにテレビに出る人、テレビにかかわる人は「セレブ」であり、お友達にでもなれたら「すごい」人々だということになろう。

 

このところ毎週月曜日に東京の新交通システム「ゆりかもめ」で、J-Sportsというスポーツ専門テレビ局に通っている。この沿線にはフジテレビがあり、夏はイベントをやっている。すごい数の人々がこのイベントに押し寄せている。野外の屋台や模擬店には、炎天下にもかかわらず長蛇の列ができている。グルメやイベントも売りだろうが、それ以上にフジの人気番組にちなんだブースが大人気のようだ。

グルメは普通に食べるよりも高いようだし、いろんなブースも子供だましみたようなものだが、みんな大喜びで並んでいる。

帰りの客は、会場を見下ろしながら「あ、ここ行けなかった」「ここ良かったよね」などと話し合っている。

本当にみんなテレビが好きなのだなと思う。

 

確かにテレビは人々の意識、ライフスタイルを変えた。マクルーハンの言葉を引くまでもなく、人々はテレビを「社会につながる窓」だと考え、居ながらにして社会とつながる実感を持つようになった。見聞は広くなったし、知識量も飛躍的に増大した。

テレビは流行も作り出したし、多くの感動も生み出した。

テレビは、人々をつなぐ文字通りの「メディア」になったのだと思う。

 

当然のことだが、テレビにかかわる仕事をしたいと思う人は多い。タレント、ミュージシャン(アーティストというんだそうな、笑止!)などは才能や容姿に恵まれなければ無理だから、あきらめる人も多いが、テレビ局の社員はお勉強ができれば行けそうだ、ということで、入社試験にはすさまじい数の志望者がおしかける。テレビ局は私企業だから、選考は企業の都合に任される。そうして押しかけた中の、才能の上澄みのほんの少しを選び取り、採用通知を送る。そして大企業の子息やテレビ業界の関係者など、社員に抱え込んでおけば有利だと判断した志望者も採用する。

こういう形で、テレビ局はステイタスを上げてきた。

 

まさに人々の羨望、あこがれを吸い上げて肥大してきたテレビ局だ。
 

しかしテレビ局は、表面上、そうした一般の人々の利益を代表するように見えるが、そうとは言い切れない。

彼らはスポンサーや管轄官庁である総務省の意向を気にしながら動いている。社会的正義を標榜しているように見えながら、スポンサーの不利益にならないように細心の注意を払っている。

 

原発事故に関するテレビの対応がまさにそれだ。原発事故の責任を追及し、東電の対応を非難するように見えるが、今の産業構造や社会体制を変えるような方向には、絶対に動かない。人々が原発に不安を持っていることは知っているから、それに賛同するふりをしながら、ムーブメントがそれ以上過激にならないように、バッファの役目を果たしているように思う。

私はずっと不思議に思っていることがある。それは自動車の問題だ。

毎年自動車が絡む交通事故で1万人近くが死んでいるが、これまで自動車メーカーが責任を問われたことは一つもない。もちろん部品の欠陥で糾弾されることはあったが、自動車という機械が人々の命を奪っていることを問題視する意見は一度も出たことがない。

卑近な例だが、こんにゃくゼリーで老人がのどを詰まらせて死んだときは、メディアは声をそろえて非難した。そのパッケージには「老人には与えるな」と書いてあったのだが、こんにゃくゼリーという食べ物自身が悪のような言われ方をした。「製造者責任」というやつだ。

同様に、自動車さえなければ起こらなかった死亡事故や環境破壊も無数にあったと思われるが、「自動車が悪だ」と言われたことは一つもない。クルマに関しては「製造者責任」は免責されるようだ。

 

単純に考えて、エコライフを実現するには、これ以上自動車を作るのをやめるのが一番手っ取り早いはずだ。エコカーに乗り換えるより、車に乗るのをやめてしまう。車は公共交通だけとして、必要な時だけ車をシェアすれば交通量は減り、エネルギーの消費も減り、交通事故も減るはずなのだが、そういう提案は、少なくとも日本では一度も真面目に取り上げられたことは無い。

それは自動車産業が、国の基幹産業であり、モータリゼーションが産業社会の基盤だからだ。テレビメディアでいえば、自動車メーカーは最大のスポンサーだからだ。

自動車を作り続けるのは、国策であり、それに水を差す意見は広がってはいけないのだ。

 

テレビは、そういう意向を忠実に反映している。今、トヨタは若者に運転免許を取らせて、車を買わせようとしている。多くの若者は都市生活に車は不要で、むしろ邪魔になると思っているのだ。その賢明な選択をテレビは改めさせようとしている。

 

我々が気付かないところで、テレビはそういう操作をいくつもやっているのだ。

今回の「日米通算」問題も、ちっちゃな例ではあるが、同種の情報操作だ。民放はともかく、何事にも慎重なはずのNHKが非常に強引な情報誘導をした。一線を越えた気がした。ショックだったし、危険なものを感じたので「犯罪的」と表現したまで。

 

もちろん、私は「テレビを見るな」とか、「テレビを敵だと思え」と言っているわけではない。かくいう私だって、数ならぬ身ではあるが、テレビにほんの少しかかわっている。

テレビ局にだって社会正義に燃える人もいるし、真剣に環境のことを考えている人もいるだろう。しかし、大企業はキメラのようなものだ。その総体としてのテレビは、決して我々のためだけを考えて動いているわけではない、ということだ。

 

メディアリテラシーとは、スパムメールやフィッシング詐欺に用心することだけではない。「テレビ局が言ってることだから間違いはない」とか「テレビに文句をつけても仕方ないじゃん」と思わずに、「奴らはおかしなことをすることだってある」という意識を持って、幾分冷ややかにモニターを眺めることだと思う。

 


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