織田信長、豊臣秀吉という二代の権力者によって、中世寺院はほとんどが解体され、無力化した。しかし、その中で唯一勢力を保っていたのが、本願寺だ。

大坂の石山本願寺は織田信長の攻撃の前に降伏し、門主顕如(1543-1592)は和歌山へと退隠したが、その後、本願寺一派は秀吉によって復権し、京都に本願寺が再興されたのだ。
しかし権力を受け継いだ徳川氏にとって、天皇、朝廷の膝下に一大宗教勢力があることは非常に危険なことだった。
実は織田信長への降参を巡って本願寺門主の一族には反目が起こっていた。宗派を守るために信長に恭順の意を示すべきだとする顕如に対し、その子の教如(1558-1614)は徹底抗戦を主張していたのだ。両者の対立は、信長の死後も続き、顕如のあとを継いだ教如は、秀吉に対して強硬姿勢で対応した。怒った秀吉は弟の准如(1577-1631)を門主に指名した。准如は、秀吉の信任を得て京都に本願寺を再興。晩年の秀吉は、准如の手で極楽往生を願うまでになった。
秀吉没後、教如一派は徳川家康に加担し、関ヶ原にも従軍した。家康は、その功を労して一旦は准如を廃し、兄教如を再び本願寺門主に指名した。しかし、徒に巨大宗派の人事に介入することは、危険であるとの重臣本多正信らの諫言を受けて、一旦この人事を撤回。その後、家康は教如に京都の本願寺の東側に寺地を与え、分派独立を促した。本願寺はここに分立するに至った。
准如が継いだ元の本願寺は西本願寺と通称された。これに対し教如の新しい本願寺は東本願寺と呼ばれた。
本願寺が東西に分かれたことで、全国にある本願寺派の寺院もそれぞれ西本願寺派、東本願寺派に別れた。今、関西圏のお寺を回っていると、一つの地域に2つの真宗系のお寺が軒を接して立っていることが良くあるが、これはこのときの分派騒動が元となっている。家康が促したこの分派独立によって、巨大宗派浄土真宗はその力を半減させた。江戸時代を通じて西東の本願寺派は、互いに反目し合った。江戸時代中期までの幕府は、この対立関係を煽ったような形跡さえある。
東西に分立した本願寺は、江戸幕府にとって大きな脅威ではなくなったのだ。

堺市にある西本願寺別院(上)と東本願寺別院(下)
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先述したように、本願寺の西東分立によって、全国の本願寺に連なる寺院もいずれかに付かざるを得なくなった。このために二つの寺院に分かれたケースも数多くあった。 


また、西東両派は、主要な都市に「別院」を建設した。「別院」の多くは巨大な本堂を持つ大寺院で、地域の真宗寺院を末寺として抱えた。別院の数は東西合わせて100か寺を超える。本願寺の西東分立は、幕府の「寺請け制度」で開創ブームにあったお寺の増大にさらに拍車をかけた。

准如の西本願寺は、主に西日本に教勢を広げた。そして教如の東本願寺は、東日本に進出した。現在も、西日本では西本願寺派、東日本では東本願寺派の寺院が多い。全体としては、寺の規模や数で西本願寺派の方がやや上回っているようだ。

明治維新後、西本願寺は浄土真宗本願寺派と名乗る。東本願寺は真宗大谷派、さらに本願寺派以外の真宗系統の宗派も「浄土真宗」ではなく、単に「真宗」を名乗った。互いにライバル関係にありながらも、西本願寺の正統性を一応は認めた形だ。

 


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