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戦国大名波多野氏は、勇壮に戦い、華々しく散った。

1557(弘治3)年三好長慶、そしてその臣下の松永久秀、長頼兄弟によって本拠の八上城を追われた波多野氏3代目波多野晴通は、その後行方不明になった。

しかし波多野氏自体は存続し、4代目当主には秀治が立った。晴通の子と言われるが、正確なところはわからない。
 

八上城は松永久秀の甥の松永孫六が守っていたが、三好長慶が死去し、松永久秀が下剋上で実権を握った1566(永禄9)年、波多野秀治は八上城を奪還した。

4代目秀治は秀でた武将だったようで、所領を丹波国全域、つまり今の京都府側の亀岡市や綾部市にまで広げた。丹波波多野氏の所領はこの秀治の代に最大になった。
 

織田信長が勢力を急速に広げ、足利義昭を奉じて京都に入ると、波多野秀治は他の丹波国人とともに信長の軍門に下った。

信長は波多野秀治の丹波支配を引き続き容認した。

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八上城のあった高城山遠望

 

平和は長くは続かなかった。信長と足利義昭が対立すると、丹波国人はこぞって義昭に味方をした。しかし波多野秀治は信長方に与した。信長は明智光秀に命じて攻略軍を組織、1575(天正3)年に丹波に侵攻した。このとき波多野秀治は先導役として黒井城を攻め落としている。

しかし、翌年、波多野秀治は突如、明智光秀を裏切った。秀治は毛利方の働きかけに応じたと言われる。
 

丹波最大の勢力が敵対したために明智光秀は攻略作戦を断念、波多野氏は再び丹波国の実権を取り戻した。
 

しかし、1577(天正5)年信長は羽柴秀吉に中国攻めを指示。同時に光秀には再度丹波攻略を命じた。光秀は現在の亀岡から丹波に侵攻、翌年には八上城を包囲した。
 

ところがこのとき信長方であった播磨三木の別所長治が反旗を翻す。波多野秀治は別所長治と姻戚関係にあったので、両氏は共同して光秀軍に当たった。
 

このため秀吉は八上城の包囲を解いて、三木の攻略を行うが、城は落ちなかった。光秀はそこで三木と八上の連絡網を断って再度八上城を包囲した。

波多野秀治は籠城を余儀なくされた。1579(天正7)年5月、糧食尽きて波多野氏はついに降伏。波多野秀治は弟秀尚とともに安土淨巌院で磔に処された。

 

こうして1304代にわたった波多野氏の丹波支配は終わりを告げた。

 

波多野秀治は丹波の国人と連携して織田方の大勢力を向こうに回して善戦した。盆地が点在する複雑な地形をよく知り、巧みにゲリラ戦を展開したと言われている。
 

丹波には「丹波忍者」と言う忍者の一流がある。頭目の雑賀五郎兵衛は、八上の波多野氏の一族である氷上波多野氏の波多野宗長に仕えて、織田信長を暗殺すべく安土城に潜伏したが、ついに果たさなかったと言う。

波多野氏は知力の限りを尽くして、戦国時代を生き抜こうとしたのだろう。

 

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波多野秀治が創建した誓願寺、山門は創建当時の建築と言う。

 

丹波の国はこうして織田信長の支配下に入った。明智光秀が丹波一刻を与えられた。光秀は亀山(京都府亀岡市)、横山(京都府福知山市)、氷上郡黒井に城を築いた。

光秀が本能寺の変で敗死すると、兵庫県側の丹波は織田信長の弟信包が所領とした。

さらに関ヶ原の戦いののち、五奉行の一人前田玄以の子、前田茂勝が八上藩を設けた。丹波篠山の江戸時代はここから始まるのである。

 

 

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