松井松平康勝が泉州岸和田に移転した後、篠山の地に入ったのは徳川家康の妹の子に当たる松平信吉だった。信吉は徳川氏の一族である藤井松平氏を継いでいた。

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家康にとっては濃い血筋の松平信吉だが、経歴はそれほど華やかではない。分家を継ぐとともに関ヶ原の戦いなどにも従軍している。

江戸幕府が開かれてからは、家康の意向で常陸土浦、上野高崎と転封(転勤)を重ね、1619年に丹波篠山藩の藩主となった。しかし信吉はそれほど丈夫ではなかったようで、翌年には40歳で病死してしまう。

江戸幕府は丹波篠山を重要な土地と見て、血筋の信吉を配置したのだ。信吉が病死したため翌年、形原(かたのはら)松平康信が、篠山藩主となった。形原松平も徳川氏の一門。

康信は行政手腕の高かった人物で、戦国時代の余韻が残る篠山盆地の検地をおこない、行政区分を見直した。また、この地に残っていた戦国時代以来の小領主、土豪を掃討して篠山藩の権力を確立した。まだこの時期、篠山では小さな戦闘が行われていたのだ。

 

ところで、篠山城には天守閣がない。1609年の創建時には天守閣を立てることも検討されたようだが、経費の節約と、「天下泰平の時代に天守は不要」という判断で建てられなかった。

そのかわりに巨大な大書院が建てられた。京都二条城の大書院に次ぐ大きさだと言うから5万石にしては相当な大きさだ。

この建物は戦時中に失火で焼けたが、2000年に当時のまま再建されている。

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この建物に入ると、篠山と言う土地の特長がよく見えてくる。

丹波篠山は、江戸幕府に取っては非常に重要な土地だった。だから、統治する大名は、領主と言うより幕府の意向で、土地を守り固める使命を帯びた「官僚」のような性格をもっていた。

篠山城は、土地のシンボルと言うより、統治のための「政庁」だったのだ。

だから、威圧感のある建物ではなく、領内の統治をするための実務的な建物だった。

再建された書院に入ってみると、機能的な部屋割りがされていることが分かる。

 

それでいてシンプルで美しい建物は、篠山盆地のあらゆる方向から良く見える。江戸時代を通じて住民にとっても、親しみやすい景観だったと思われる。

 

さて、形原松平氏の統治は康信を初代として5代続いたが、1748年に青山氏が新たな篠山藩主として転封してきた。

青山氏は徳川家康に父の代から仕えた譜代大名。江戸時代に入って多くの家に分かれたが、丹波篠山の青山氏はその宗家(本家)にあたる。東京の「青山」の地名はこの青山氏の屋敷があったことから名づけられた。

この青山家が7代続いて明治維新を迎えた。

 

青山の殿様は善政を敷いたようで、篠山市のあちこちに青山氏を顕彰する石碑などがたくさん残されている。

篠山城の城内にも、最後の藩主青山忠誠の大きな石碑が立っている。

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篠山市には青山氏代々の菩提寺だった蟠竜庵と言う立派なお寺がある。美しいお寺だが、もとは浜松にあった。青山氏が幕府の命で所領を移るたびにお寺も移転し、丹波亀山(京都府亀岡市)を経てこの地にやってきた。

お寺も大名にくっついて移転してくるのだ。

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山国丹波には、こうしていろいろな文化も入ってきたのだ。

 

最後の殿様、青山忠誠は明治維新後の1873年に篠山藩を継ぎ、廃藩置県を経て陸軍軍人になった。教育にも力を注ぎ、鳳鳴義塾を立てた。後の篠山鳳鳴高校だ。

29歳で没したが、篠山の人々はその遺徳を今も語り伝えているのだ。

 

丹波篠山は地味ではあるが、面白い歴史物語を持った土地だと実感した。

 

 

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