先日、朝早い取材のために近鉄特急に乗った。「喫煙席しかありませんがいいですか」と言われ、しぶしぶ喫煙席に乗った。
車両のドアを開けた時から「場末」のにおいが漂ってくる。席に着いた時にはすでにうんざりした気分になっていた。
しばらくすると隣の若い男が「パチッ」とライターを鳴らして煙草に火をつけた。気を使うそぶりはない。
「喫煙席やから当たり前やろ」と言いたげだ。
煙はじかには当たらないのだが、おそらく目に見えない粒子が鼻や口から肺に入り込むのだろう。「きーん」と頭が痛くなって、みぞおちの辺りが重くなった。

ふつふつと怒りがわいてくるが、ここは「喫煙席」。いかんともしがたい。
もうすぐ受験シーズンなのに、受験生が席がなくて喫煙席に座ったら困るだろう。このシーズンだけは断固禁止すべきだ、などと思う。
この日はずっと胸が重たくて憂鬱だった。

しかし、よく考えてみると、私が社会人になった30数年前は、どこへいっても紫煙が漂っていた。
私は大学を卒業して上方落語協会というところへ入った。
当時はある演出家の事務所を間借りしていた。先代桂米紫という初老の噺家が事務局長をしていたのだが、この人は朝から晩まで煙草を吸っていた。家主の演出家は着ぐるみを使ったショーをやっていた。奥さんが「煙草の匂いが着ぐるみについて嫌!」といっていたのを思い出す。

この米紫という人は煙草を喫うだけでなく、灰皿でたき火のように煙草の吸殻を燃やすのが好きで、もうもうたる煙が上がっていた。米紫の師匠の桂米朝も同じ癖があって、あるホールの楽屋でこれをやって、スプリンクラーが作動して水びたしになったことがある。

コピーライターになってからも企画会議や打ち合わせなどは、煙の淀む中でやるのが常だった。女性も、私のように煙草を喫わない男性も、別におかしいとも何とも思わずに何時間も座っていたものだ。

それがいつの間にか「煙草を喫うのは極悪人」のようになり、私たち喫わない人間は、喫煙者を「二級市民」のように見るようになった。

煙草を喫わないのが当たり前。煙草をするのは非常識。
公共の場所からどんどん喫煙場所が失われていき、喫煙者は肩身が狭くなった。
最近では、喫煙者は低学歴でギャンブル好きで、健康にも無頓着な人が多い、などという調査結果まで出ている。
私たちもいつの間にか「喫煙許容派」から「反喫煙派」に陣営を変えていたのだ。

しかし、今、振り返ってみると昔の大人たちが煙草を喫う風景は、決して悪いものではなかった。

小学生のころ、宿題の工作がうまく作れないで困っていたら、父が手伝ってくれたことがあった。背広を着たままくわえ煙草で「こうしたらええねん」と指先を動かす父親は頼もしくて、格好がよかった。

「刑事コロンボ」で、よれよれコートのコロンボが、ちびた煙草の煙をたなびかせながら犯人を追い詰めていくのは、迫力があった。煙草の煙は、さえない小男コロンボの体から立ち上がる気迫のように思えたものだ。

コピーライターの勉強をしていた時、鈴木康之さんの本に、専売公社の「この一服がたまらない」という広告シリーズが載っていて、巧みなボディコピーに感心したものだ。

落語にもキセルで煙草を喫うシーンはたくさん出てくる。噺家の腕の見せ所でもある。

煙草が演出効果をあげている映画は、枚挙にいとまがない。
ハンフリー・ボガートが煙草を吸わなかったら、「カサブランカ」という映画はなかっただろうと思う。

最近、映画の中の喫煙シーンに対して、禁煙団体が「子どもの教育によくない」とかみついた。
私は、子どもに煙草を喫ってほしくないが、それ以上にこんなバカなことを言う大人になってほしくないとも思う。

今となっては、煙草は社会から締め出すべきものになっている。しかしそれは「煙草の害悪」のみであって、煙草が醸してきた「文化」「雰囲気」ではない。
喫煙は数千年にわたって人類がたしなんできた習俗であって、豊かな文化を育んできたのだ。

今年の春、福井市を自転車でうろついていて「臼井煙草倶楽部」と言うカフェを見つけた。雰囲気が良さそうだったので思わず入ってしまった。私一人だった。ランチがおいしそうだったので、注文した。
「煙草倶楽部」というくらいだから、店主も喫煙するのだろうが、私が喫わないと見るとランチを食べ終わるまで煙草に火を点けなかった。
コーヒーを飲む段になって、店主も、奥さんも煙草を喫い始めた。女性客が入ってきて、煙草を喫った。
不思議なことに、それが少しも嫌ではなかったのだ。
自分が喫煙する人々に「気を配られている」と思ったからか、それとも喫い方が上手なのか。
生まれてこの方、ほとんど喫ったことのない私も、「いいもんだな」と思った。くゆらせた煙草の煙が、場に居合わせた人々を緩やかにつないでくれるように感じた。

usui-tabako


身勝手な意見かも知れないが、煙草のよいところだけ残すことはできないのだろうか。
マナーを熟知した上質の愛煙家のみ、煙草を喫う文化を伝えてくれるのなら、それはそれでいいと思う。



 
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