生まれてから皇居に足を踏み入れたのはただの一度しかない。
1972年、父方の祖父が死んだ年の年末年始を熱海で過ごしたときに、皇居の一般参賀に行ったのだ。中へは入れなかった。各国大使などが乗った黒塗りの公用車が宮殿に入るのを見ていただけだ。
母は車の中の要人に手を振るのが気に入ったらしく「もう帰ろう」といってもしつこくやっていた。母の傍若無人ぶりはこの旅行でもいかんなく発揮されたが、それは書かない。

天皇陛下に関するエピソードが好きだ。こういう話。

■明治天皇
蜂須賀茂韶は、阿波徳島藩の最後のお殿様。英明な人で日本の近代化に貢献した。徳島にルーツを持つ私は、菩提寺にこの方を顕彰する碑があって親近感を持っている。
この蜂須賀茂韶が、明治天皇に招かれて歓談した。
天皇が中座された時に蜂須賀茂韶が、天皇の煙草を少し持って帰ろうと懐に入れた。
帰ってこられた天皇が、煙草が減っているのを発見して
「蜂須賀、先祖は争えぬのう」と言った。野武士出身と言われる蜂須賀家を揶揄したのだ。

■昭和天皇
戦争から引き上げた男が、皇居周辺の清掃の勤労奉仕をした。男は宿無しだった。
空腹のあまり、ベンチで横になっていると、しばらくして背広姿の男がやってきて「大丈夫か」と言った。宮内庁の職員だった。
男が起き上がると「陛下が宮殿から君をご覧になって、病気ではないか見て来よ、と言われたのだ」と言う。
宮殿の方を見ると、天皇陛下がまだじっとこちらを見ておられる。男はひざまずき、頭を深く垂れた。男は脱走兵だった。

■昭和天皇
永六輔、小沢昭一、加藤武、柳家小三治、桂米朝などで作る俳句結社「やなぎ句会」の面々が列車で吟行に出た。ある駅でお召列車と横並びになった。
メンバーが覗きこむと、お召列車に座っておられる天皇と顔が合った。
喜んだ面々は、車窓から思いっきり愛想を振りまいた。
テレビでおなじみの顔が入れ代わり立ち代わり車窓に現れるのを、天皇陛下はことのほかお喜びになったと言う。

戦後生まれの私たちにとって、天皇、皇室はよく分からない存在だった。なぜ生まれたときから特別扱いされるのか。「さま」付け、敬語で呼ばれるのか。
私は皇太子浩宮と同学年だが、夏休みになれば赤ふんどしで泳いだり、山歩きをし、休みには登山やスキーをする「浩宮さま」の報道が流れるたびに「お前も同い年やからしっかりせんと」と言われたものだ。

しかし歳を重ねるとともに、なんとなく皇室に親近感がわいてきた。同じように年を重ねる一つのご家庭がある。ご家族は年とともに皺が深くなり、髪は白くなり、子どもたちは大きくなり、世代交代がゆっくり進行している。壮大なホームドラマを見るような感覚で、ご一家の様子を見るともなしに見てきたような気がする。

天皇、皇室は、千数百年の日本の歴史が連綿とつながっていることの証でもある。数ならぬ私も皇室の方々と同じ時間を共有することで、日本の歴史と繋がっていることを実感できる。
そういう感じではないかと思う。
王制ではないアメリカの人々が英国王室の大ファンだったり、王朝風のものを好んだりするのは、「歴史と繋がっている自分」を確認することができないからだろう。

昭和天皇は、「大日本帝国」と「日本国」と言う二つの国家の天皇だった。一方では主権者であり、一方では象徴だった。私は好々爺の印象しかないが、皇帝の威厳も持っておられたと言う。侍従長の入江相政は天皇から死を賜ったという話もある。

当今は「平和日本」の象徴であり、皇帝の顔は持っておられないように思う。「象徴天皇」としての責務を果たしておられる。
これは口で言うほど簡単なことではない。一個の生身の人間として、思うところ、感じるところもおありのはずだが、そういうことは一切表すことなく、つまり「人間」としてのすべての「存在」を消して、象徴に徹しておられる。これは本当に凄いことだと思う。

日本と言う国がいろいろな方向にぶれながらも発展を続けてこられたのは、エキセントリックなナショナリズムの台頭が無かったからだと思う。それは天皇、皇室が政治的に「無色透明」を守ってこられたからだと思う。



先日、明治天皇の玄孫に当たる竹田恒泰氏が「在特会が活動したおかげで在日の特権の問題が明らかになった」と発言して問題になった。
竹田氏は「旧皇族」という看板で世渡りをしているように思うが、そういう人間がこのような「色のある発言」をしたことを、天皇は悲しんでおられるだろうと思う。

天皇は80歳になった。その長寿を寿ぎたい。そして天皇、皇室がその厳しい役割を今後とも維持していかれることを祈念したい。



 
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