「野球の記録で話したい」でいただくコメントに、「リテラシー」という言葉で返すことがある。
リテラシーとは「なんらかの分野で用いられている記述体系を理解し、整理し、活用する能力」ということだ。
文章を読み込む力という点で「読解力」に近いが、意味だけでなく、書き手の真意や立ち位置、対象に対する態度などを理解し、忖度するような能力だと思う。
リテラシーは年齢や読書歴、さらにメディアに対する経験度などによって変わってくる。
もちろん国や所属しているコミュニティなどの社会属性によっても変化することだろう。
そういう意味では、簡単な言葉ではない。

ブログでのやり取りでリテラシーの有無を特に感じるのは「リスペクト」という言葉に関するものだ。
例えば、ある人は今年、イチローの四球が増えていることを私が「痛々しい」と書いたことに、リスペクトがない、とコメントをした。
また、中村紀洋をカリカチュアした文章をアップしたところ、何人かの人から「お前は野球選手はリスペクトすべきだ、と言いていたではないか」というコメントをもらった。

ちょっとびっくりした。
文章表現が正しいかどうか、とか、面白いかどうか、についての意見は、可否いずれであっても甘受すべきだと思うし、そういう反応が欲しいと常々思って書いているのだが、リスペクトについての批判をいただいたのは予想外だった。

リスペクトとは「尊敬」という意味だ。つまり、イチローや中村紀洋について、ネガティブな表現をするのは「尊敬が足りない」ということだろうか。

尊敬すると言うのは、その人物の業績や言動、人柄に対して敬意を抱くことだ。しかし尊敬する人だから批判をしてはいけないということではない。
どんなに尊敬する人物であっても、良くない言動があったり、仕事面で不振だったりしたときは、率直にそれを口にするべきだ。
尊敬している人だから批判すべきでないとか、言葉を慎むべきだ、というのはおかしい。

もちろんリアルなシーンでは、尊敬する人物に対面して、いきなり批判することはできないだろう。
礼を失しているし、そもそも唐突過ぎて理解されないだろう。

しかし本質的には、リスペクトしていることと忌憚ない意見を述べることは何ら矛盾しない。むしろ、その人物を尊敬しているからこそ、直言もできると言うものだ。

こうしたコメントからは「リスペクト」という言葉を「賛美」とか「服従」とかいうニュアンスでとらえている人が多いと言うことが分かる。

パロディやカリカチュアライズすることも、リスペクトとは矛盾しない。
いしいひさいちは、昭和の時代、田淵幸一を「がんばれタブチくん」という漫画で散々ネタにしたが、いしいが田淵をリスペクトしていないという批判はなかったはずだ。
むしろ有名人の雅量として、そうしたカリカチュアも笑って受け止めることが求められよう。



野球だけではないが、人物や組織を批判した時に「お前はそいつが嫌いなのだろう」と書いてくる人がいる。
私が好悪でモノを書いていると思ってそれを批判しているのだ。
しかし、自分で書いて見ればわかるが、好き嫌いだけで毎日違う文章を書くのは至難の業だ。
好きにしても嫌いにしても、その根拠は無尽蔵なわけではない。すぐにネタは尽きる。こじつけるしかなくなる。
よく誰かの悪口だけを書き続けているサイトがあるが、総じて面白くないのはネガティブな姿勢であるうえに、ネタ切れしているからだろう。

私にも当然好悪はある。嫌いなものには点が辛くなる傾向があるのは間違いないが、それでも務めてニュートラルでいようとは心がけている。
そうでないと、書き続けることができないからだ。
こうした感覚も、相手をリスペクトする姿勢に通じると思う。

ネットを通じて見はるかす世の中には、「敵、味方」「好き、嫌い」「正、邪」などの二元論でモノを言っている人が多いことを実感する。

実際の世間は、そんなに簡単ではなくて、良いことも悪いことも、よくわからないこともごろっと無造作に存在している。実にグレーなものである。
我々は、往々にしてそれを単純化してしまいがちだ。深く考えるよりも、白黒をつけたいと思ってしまいがちだ。
しかし、そうした安易な姿勢が、誘導されたり、巻き込まれたり、煽動されたりすることになる。
ヘイトスピーチを口にする面々などは、そういう人なのではないか。



つまるところ、「リテラシーがない」とはここに落ち着くように思う。

私はこれからも、誰に憚ることもなくモノを書いていきたい。
切っ先は鈍らせたくないが、同時に世の中はグレーだと言うことを常に念頭に置きたいと思う。

私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひ、コメントもお寄せください!


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