「週刊文春」の人気コラムだった「糸井重里の萬流コピー教室」の「あやとり」のお題で「高倉健です、不器用ですから横で見てます」というのが「松(最高点)」を取ったのを覚えている。
「不器用ですから」は映画ではなく1984年の日本生命のCMのコピーだが、高倉健を象徴する言葉になった。
確かにこの役者は不器用だった。
不器用と言うのは、己を曲げることができなかったと言うことだ。200本を超す映画に出ながら、終始そのキャラクターを変えることが無かった。
若い頃の任侠映画で出来上がった一本気なキャラクターは、81歳で出演した「あなたへ」までずっと一緒だった。
その点、鶴田浩二や池辺良と同じ路線を歩んだと言えるだろう。
「不器用派」とでもいうべきか。

転機となったのは、衆目の認める通り、東映退社後の1977年の「幸福の黄色いハンカチ」だ。山田洋二監督は前科者の男の役を高倉健に振ったが、それは高倉健が切った張ったの任侠映画から卒業することを意味していた。
それからの高倉健は、主として戦前の任侠の世界ではなく、戦後の庶民の生活の中で生きる役割を演じてきた。
とは言っても演技が変化したわけではない。高倉健は相変わらず高倉健のまま存在していたが、周囲が違う舞台を用意し、違う役柄を身にまとわせたのだ。
まるで回り舞台の中心に立つスターのように、自身は全く動かず、背景や周囲がぐるっと変わったのだ。
細かな演技やたたずまいの変化を評されるのは「演技派」と称される役者であり、舞台の中央ではなく、少し外れた位置に立つわざおぎたちだった。
高倉健は、ずっと高倉健のままだった。スターとは本来このようなものだろう。

あれほど存在感のある役者ながら、黒澤明が使わなかったのはもちろん所属する会社が違ったからだろうが、同時に「演技を付けることができない」剛性の強いキャラクターを忌避したからでもあろう。
「幸福の黄色いハンカチ」以降の高倉健は、周囲のすべての役者を「小物」に見せてしまうようになった。存在感が大きすぎて、高倉健以外にスポットが当たらなかった。
このことも、名匠、巨匠がこの大きな素材を使いたがらなかった一因だと思う。

1980年以降の高倉健を撮ったのは降旗康男、森谷司郎など原作に忠実で自己主張が比較的薄い監督たちだった。そして、別々の映画であるにもかかわらず、高倉健は「続き物の映画」を見るように、連続性があるキャラクターを演じ続けた。

抜群の肉体を持つが、後ろめたい影を持つ危険な男が、罪を償って一般社会に戻ってくる。男は人いきれの中で肩身の狭い思いをする。日陰の恋もし、周囲には支持者も生まれるが、アウトローの影を消し去ることはできない。
巻き起こった不穏な事件に対して、再び立ち向かって本性を現す。

みたいなストーリーに集約できるように思う。



そんな中ではリドリー・スコットの「ブラック・レイン」は異色だ。スコットは、松田優作がエイリアンのように凶暴性のある役を一手に引き受けたこともあって、高倉健の陰影を消し去り、優秀な武器のような精悍さと誠実さだけを際立たせた。

70歳を過ぎる頃から、高倉健は遙かに若い役を演じ続けた。実年齢はどんどん嵩んでいくが、映画の中での高倉健は50代半ばで止まっている。
映画を見ながら、私は「高倉健は苦しいだろうなあ」と思っていた。



「あなたへ」のクライマックスで、老漁師の大滝秀治と絡むシーンがある。二人はひと世代違うように見えたが、実際には学年で5つしか違わなかったのだ。
大滝秀治にとってこの映画は遺作となったが、高倉健にも遺作になってしまった。

梅宮辰夫は胸騒ぎがして、2,3日前、高倉健の弟子筋に当たる小林稔侍に「会いたいから連絡を取ってくれ」と頼んだ。恐らく高倉健の死を知っていた小林は「は、は、は」とあいまいに笑って受け流したと言う。
映画のようなエピソードを遺して、昭和のスターは逝った。


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