桂米朝なかりせば、上方落語のコンテンツは今よりはるかに貧弱になっていただろう。恐らくは、200人以上の噺家を養うようなことはできなかっただろう。


本葬の際に、近藤正臣が「米朝はん、古い噺をぎょうさん復活させてくれておおきに」と弔辞を述べていた。このことこそが、米朝の最大の業績ではあっただろう。
余談ながら、近藤正臣が漂わせる気品と凄みこそが、上方人の本筋の魅力だ。吉本芸人やたかじん系の多くは、傍流あるいは、ぱちもんである。

噺家がネタを増やす手段としては、師匠からの伝承、新作落語の創作がある。他に、イレギュラーではあるが他の噺家の噺を勝手に盗んだり、テープやビデオから噺をしいれることもある。
さらに、昔の速記本などから噺の復刻をすることもそれほど珍しいことではない。そういう試行錯誤をする噺家もいる。
しかしその多くは「掛け捨て」だ。一二度高座にかけてはみるが、受けが悪い、演じるほうもノリが悪い。
多くは持ちネタにはならない。

それは、ベースにした昔の速記本などの出来が悪いからではあるが、演者の噺への理解力の浅さ、そしてもちろん話芸としての力量の問題もある。
端的に言えば、落語に対する深い洞察力がなければ、噺の復刻など不可能なのである。

米朝は噺家になる以前に落語の研究者を目指していた。噺が生まれた背景や、それを演じた噺家の芸の系譜、人となりまで十分に目配りをすることができた。
そういう素養があった上に、今は高座に上がらなくなった古老や、下座で話を聞いていた老女などにじっくり話をきいた。そういう取り組みを続ける中で、噺を復刻していったのだ。

米朝が復刻した代表的な噺に「地獄八景亡者戯」がある。意外なようだが、この噺は、SPレコードで戦前の音源が残っている。六代目松鶴の父の五代目松鶴も音を残している。

しかしそれは、レコード用に圧縮された簡易版だ。しかもSPに音を入れた噺家は、桂、三友の両派に名人上手が出て覇を競った明治期の上方落語界を十分に知っていたわけではない。それよりも時代が下った“後の世代の噺家”だったのだ。
米朝は形式的に噺を復刻するのではなく、その噺の本当の魅力をも甦らそうとした。
だから速記をベースにしつつも、森乃福郎の師匠だった、笑福亭福松などに多くのヒヤリングや文献を元に肉付けをし、壮大な「旅ネタ」に昇華させたのだ。

そして、米朝は自身が復刻した噺を、客に十分に満足させることができる力量を有していた。
これは本当に奇跡的なことである。

「地獄八景亡者戯」は80分という大ネタである。しかし他の大ネタのように、複雑な人間関係があったり、高度な心理描写を必要とするものではない。
だらだらと雑多な出来事が起こるだけの起伏のない噺。主人公はあってないようなものだし、途中で消えてしまう。
要するに「旅ネタ」であり、単純な噺なのだ。
それだけに80分を持たせることは至難の業だ。
米朝の後、枝雀、先代春蝶、文珍、吉朝、春風亭小朝、林家染丸など、名だたる実力者が挑んだが、結局、米朝を超えることはできなかった。どこかで息切れをしたり、だれたりしたのだ。
米朝の話芸者としての「基礎体力」の高さを見る思いだが、同時に米朝は「演出者」として、この一風変わった大ネタをどう料理すべきかを知悉していたのだろう。

米朝は「地獄」を演じはじめた初めの頃には「けったいな噺」と切り出していた。「たこ芝居」でもそう言った。「算段の平兵衛」では、「後味が悪い噺」と言った。つまり、最初に「あまり面白くないかもしれない」と言う断りを入れていた。また米朝は、「滅びた噺にはそれなりに滅びた理由があった」とも言った。



要するに、米朝は、演じるには難のある噺を復刻したのだ。だから、その演出には細心の注意を払った。そして、その手の噺には米朝自身が噺の舞台袖にいて「ガイダンス役」を務めた。
こうした米朝にしかできない演出があって、復刻は成ったのだ。

恐らく「地獄八景亡者戯」にしても「算段の平兵衛」にしても、米朝の復刻落語は、原型よりも面白くなっていたはずだ。また演じやすくもなっていたはずだ。
米朝の後輩たちが、安心して持ちネタにすることができたのも、米朝が古い噺を今の聴衆に通用する噺に仕立て直しをしたからだ。

学究者として並ぶもののない力量、見識を有しながら、演者としても卓抜。この奇跡があって、復刻噺は成立した。
こんなことができた噺家は他にいない。まさに空前絶後だ。



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