桂米朝なかりせば、優秀な人材がかくも多く、上方落語界から輩出することはなかっただろう。そして上方落語は劣化していただろう。
落語と言う芸能は、東西問わず純粋に「都会の芸能」だった。江戸、上方と言う都市圏で純粋培養された。
落語は、基本的には、田舎者には一切の配慮をしない芸能だ。都会人の生活感覚、教養、美意識の上に立脚している。
落語の中には田舎者がたくさん出てくるが、それらはどことも知れない“田舎”の言葉を話すステレオタイプになっている。田舎=非都会であれば、どこでもよいのである。田舎に対して見下ろす態度が基本である。

昔は地方から丁稚が奉公に上がると、店の主人は寄席に連れて行って落語を聞かせたという。田舎であればゆるされたであろう心安さや、生ぬるさを排除し、「他人同士が肩を寄せ合って生きている」都会の価値観、立ち居振る舞いを感覚的に身につけさせたという。

このあたり小山観翁の著作に詳しい



落語は、総合芸術としての「歌舞伎」の世界観の上に成り立っている。歌舞伎も純粋に「都会の芸能」である。
噺家は顔を左右に振ることで人物を描き分けるが、顔を振るときに意識するふり幅はもともと「三間(5.4m)」だったと言われる。それは江戸時代の芝居の舞台の幅だった。
故露の五郎兵衛は、「落語は舌で描く芝居だ」と言ったが、芝居とは歌舞伎に他ならない。
噺家が登場するときに演奏される出囃子は、基本的に「長唄」である。
長唄は歌舞伎のために造られた叙景音楽(唄い物)だ。歌舞伎は長唄だけでなく、常盤津や清元、義太夫節などの叙情音楽(語り物)も取り入れているが、基本は長唄。歌舞伎の世界観を共有する落語も基本は長唄。笛、太鼓などの鳴り物も歌舞伎音楽に依っている。

戦前までは、歌舞伎は都会人にとって当たり前の「教養」だった。都会人は歌舞伎のストーリー、ファッション、価値観を身近に感じていた。
落語は歌舞伎のカリカチュアだったり、代償物だったり、パロディだったりした。歌舞伎がわかっているから、落語も理解できたのだ。

しかし戦後、ライフスタイルが大きく変化し、歌舞伎の様な日本文化は、日本人の基礎的教養ではなくなった。

この時代に落語を演じる、継承する人は、たとえ都会育ちであっても「歌舞伎の教養」は身についていない。だから、噺家になる人は、まず「歌舞伎を学ぶ」必要があったのだ。

上方落語界では、戦前と戦後で大きな断絶があったために、なおさら「教養レベル」が欠落していた。「歌舞伎の教養」がなくても真似事で落語をすることはできるが、長い時間を経ればそれは変質し、おかしなものになっていくはずだった。

このことをはっきり認識していた師匠は桂米朝だけだった。
米朝は、子弟に「歌舞伎の教養」を徹底的に学ばせた。三味線、踊り、鳴り物。
他の一門でも一通りのことは教えたが「笑福亭の捨て育ち」と言われるように、基本的には放任主義だった。
米朝は、落語とそのベースになる歌舞伎の世界観を、具体的に言葉で教えた。そしてそれを習得させようとした。
若いころ、私は噺家に誘われて歌舞伎をよく見に行ったが、大抵米朝一門だった。米朝の兄弟弟子である故桂米之助も熱心で、私は朝日座や文楽劇場、松竹座に若手の噺家と一緒に連れて行かれた。

米朝一門には笛、鳴り物の名手もたくさん出た。桂米輔のように歌舞伎の公演の鳴り物(笛)にかり出される人さえ現れた。
すでに人気者になった桂枝雀がたわむれに舞台そでで一番太鼓を打つのを見たことがあるが、米朝一門でも抜群の秀才だった枝雀は、鳴り物も抜群だった。一門の兄貴株が「よう見ときや」と若手にささやいていた。

米朝一門以外にも、歌舞伎の教養を身に着ける噺家が増えていったが、それは明らかに米朝の影響によるものだった。

あるとき、上方落語協会でクラブ活動をしようと言う話が持ち上がった。野球、ゴルフ、麻雀などなどいろいろなクラブ名が上がったが「米朝一門は落研を作るだろう」と言われたものだ。

立川談志によれば落語は「業の肯定」である。つまり人が欲望のままに生きていることが、すなわち「落語」であると。それは間違いないが、落語が息づいている「世界」は、あくまで現代ではなく「近世、近代の日本」である。その価値観を離れて落語は成立しえない。
談志はそのことをよく知っていたから、弟子には厳しく古典的教養を身につけさせた。

米朝も同じことをした。
結果として米朝一門は「勤勉」「熱心」「誠実」という、噺家らしからぬ徳目も身に着けた。
実際には、無頼派とか破滅型と言われた昔の名人上手も、噺の修練だけはひたむきで誠実だったのだが、芸人と言う言葉からイメージされる「いい加減さ」が独り歩きし、努力などしなくても良いと勘違いする芸人が多いのも事実だ。
しかし怠け者が大成することがないのは、どの世界も同じである。

桂米朝が弟子たちを厳しく指導しなければ、落語の継承はかなりいい加減なものになっていただろう。
そして「吉本的なる価値観」に呑みこまれてしまったのではないか、と推測する。


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