桂米朝なかりせば、かくも豊かな落語評論は生まれなかっただろう。


噺家の伝記や自伝は珍しいものではない。そこそこ名の通った師匠であれば、口述筆記やゴーストライターを介して一代記を作ることはよくある。

しかし元々作家、正岡容門下で評論家志望だった米朝は、筆が立った。私などが言うのは生意気な話だが、落語と同様、しっとりとした良い文章を書いた。

雑誌「上方芸能」に長く連載した随筆は名著「上方落語ノート」になった。私は20代前半、この編集部を手伝っていたが、毎号、あの独特の筆跡の原稿が届くのを楽しみにしていた覚えがある。
本は青蛙房という東京の版元から出た。この本屋は、昔は手作りの箱に入れて本を出していた。これもあじわい深い。
米朝が若い頃に聞いた昔の寄席の話や、古老の思い出、噺の成り立ちなどを思うに任せて書きためたもの。今となってはその一つ一つが、宝物のような言葉である。



青蛙房は、東京の噺家の本もたくさん出した。その中で、米朝の著作に匹敵するのは6代目三遊亭圓生の「寄席育ち」だろう。大阪に生まれ、若くして芸界に身を投じた圓生の半生が、端正な江戸言葉で綴られている。私はこの本を読んでいる最中に、圓生の訃報に接して涙した思い出がある。



米朝と圓生は、その位置付けや芸風、志向に共通点が多い。
ともにネタ数が非常に多い。また古今の芸能に通じていた。芸風は端正で緻密。また自らの落語を言葉にして語ることができた。理論派だったのだ。
そして噺家ならではの好著を著した。
違うのは、圓生が、役者子供と言って良いほど無邪気な性分だったのに対し、米朝は、素顔も実直で学究肌だったことか。
圓生が文楽、志ん生、小さんと対比される存在だったのに対し、米朝は、春団治、松鶴、文枝と比される存在だったことも似ている。
さらに言えば、両者はレコードという媒体でファンを増やしていったこともよく似ている。
二人の「百年目」を聞けば、両者の共通点と違いがよくわかる。





米朝は、落語評論を手がける人々を薫陶した。

無名であっても、熱意のある研究家や学生には「後で楽屋へ来なさい」と言って誘い、落語会がはねた後の打ち上げに誘った。米朝の打ち上げは、ただのバカ騒ぎではなく、米朝が若手に語る珠玉の芸談の会だった。時に著名な作家や歌舞伎役者、狂言師、文楽の大夫なども加わったその会は実に華やかで楽しかった。
私は当時、かなりな馬鹿者だったから、そういう会の末席に加わってもろくな反応もできず、たつきの道にもできなかったが、そういう会の中から、著名な上方芸能評論家が生まれたのだ。

小沢鉱司、小佐田定雄、前田賢治、保志学、豊田善敬などの研究者たちがそれだ。

噺家の中には「評論家など不要だ」という人も多いが、米朝は上方落語の復興に毎日新聞の渡辺均などのジャーナリスト、研究者が大きな力となったことを知っていた。
上方落語の理解者を部外に作ることの重要性をよく理化していたのだ。

そういう研究者たちは、ある意味でもう一つの「米朝一門」を成したといっても良いだろう。

さらに米朝は、富士正晴、司馬遼太郎や小松左京、かんべむさしなど関西の文壇とも近しかった。
サンケイホールで正月に行われる独演会の楽屋は、さながら文壇サロンのようだった。
こうした幅広い交流は、他の噺家には不可能だっただろう。

米朝の著作は聞き書きも含めると膨大なものになるが、一冊をあげよと言われれば、私はやはりこれを推す。



子供向けに書かれた入門書だが、落語という芸能についてここまでわかりやすく、明快に、そして親切に解いた本はない。
この本からは、米朝という親切で真面目な人柄がにじみ出ている。そして、彼が一生を捧げた上方落語の魅力が余すところなく、書かれている。
米朝の人柄にふれる上でも、必読だ。

文人としても桂米朝は稀有の人だった。


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広尾晃、3冊目の本が出ました。