ニット帽、口の周りには黒い髭を描いている。腹巻、ニッカボッカ、地下足袋姿。原哲男あたりに「京やん、これからは真面目にはたらくんやで」と諭されると花紀京はキッと相手を睨みつけてこう言うのだ「そんなんしたら癖になる」
私は喜劇人とは「人情」や「人生の教訓」や「愛情」などの上げ底を使わずに、正味面白いことだけで勝負している人のことだと思っている。
いやしくも、喜劇人を名乗るからには、人の役に立つこと、人を感動させることなんか、恥ずかしくて言えない。そういう矜持を持つ人のことを言う。
その点で、三木のり平や藤山寛美や、ポール牧、萩本欽一などは脱落する。

また台本に則って演技をする「喜劇役者」もその範疇には入らない。森繁久弥、渥美清などは除外。当意即妙の演技をする人に絞りたい。

寄席芸人も除外。喜劇、軽演劇の人に限定したい。

さらに「面白いこと」の内容が、幼児や子供レベルではなく、一通り世渡りをしてきた大人を笑わせるものでないとダメだと思っている。
このレベルで言うと、岡八郎、間寛平、今の吉本新喜劇の座長クラスは、ほとんどダメだ。

長いこと見ているが、間寛平が面白いと思ったことは一度もない。関西の小学校では、このレベルのいちびりはクラスに一人や二人必ずいるものだ。
最近、さんまが寛平に「兄さん、笑いになってまへんやん」などきつい突っ込みを入れるが、結構マジだと思う。

岡八郎のギャグといえば「くっさー」だが、これも小学校なみだ。いい年をした大人が言うから笑いを呼ぶが、そうした落差だけの笑いだ。

吉本でいう「ギャグ」は、きっちり設定ができれば誰でも笑いが取れる。

今の吉本新喜劇は、綿密な台本があって、出演者は台本に従って仕掛け花火のボタンを押すようにギャグを言う。だから出演者はみんな一つや二つ笑いを取る。つまりシチュエーションだけで笑わせるものなのだ。
悪いとは思わないが、芸人の力で芝居が回っているという感じがしない。

そういう観点で言えば、本当の喜劇人は私の知る限り由利徹、坂田利夫、花紀京くらいだ。

付則すると、伴淳三郎と横山ノックは、「人を感心させよう、感動させよう」と思って言ったことが爆笑を生むという「誤爆型」だ。
藤山寛美の葬儀で、ノックが神妙な顔で「黙祷の音頭をとらせていただきます」と言って、しめやかな場を笑いをこらえる苦悶の場にしたのは有名だ。
また伴淳三郎は、稀代の吝嗇家で、喜劇人協会の会長になってからはさまざまな「誤爆の笑い」を残している。

花紀京は、できれば人生を「本気を出さずに」流して生きたい人を演じるのがうまかった。

花紀が登場すると、とたんに舞台が軽く、気楽になる。膝を軽く曲げて、ちょいちょいと歩く。観衆はどんなおもろいことをするか、と花紀を追いかける。
結納の金や、借金の返済などを「ほな、わしがあずかっとくわ」といって懐に入れるなりさっさと舞台からはけようとする。その軽妙さに客席がどっと沸いた。

あれほどの人気者でありながら、主役は殆ど張らなかった。また主役に据えると面白くないのだ。愁嘆場や説教場が全くリアリティがない。これはむしろ喜劇人としては「褒め言葉」だが。

また岡八郎は、花紀京と組んだときだけ面白かった。花紀の軽妙さによって、「まじめでちょっと根暗」という岡の本性があぶりだされる。おちょくり、おちょくられる関係の面白さは天下一品だった。



父の横山エンタツは、ミナミで何度か見かけたことがあるが、漫才は聞いたことがない。そもそも、エンタツ・アチャコは吉本の政策でばらで売られたから、戦後はほとんど漫才をしていない。

しかし音盤で聞くと、花紀との共通点がいくつも見えてくる。
一生懸命しゃべるアチャコにエンタツは間の手を入れるのだが、話を混ぜ返すだけで、一つも話を前に進めさせない。そもそも、ちゃんと話を聞く気はないのだ。
アチャコは、ときどき怒るが、エンタツの間の良さに引き込まれて話があらぬ方向へ行くのだ。
昔の漫才とは比較にならないスピード感、そしてナンセンス。
多くは秋田実の台本だが、エンタツなくしてこの漫才は成立しない。

エンタツと花紀の共通点は「アナキズム」と「絶妙の間」ということになろうか。誰のためにもならないこと、何の意味もないことを延々と繰り出し、笑いを取る。間の手の絶妙さ、軽さはまさに父親譲りだ。

10年以上も療養生活を送った果ての逝去。最近の人はほとんど知らないだろう。
吉本が生んだ最高の喜劇人だった。


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広尾晃、3冊目の本が出ました。