昭和後期の東京落語界の「四天王」と言えば、五代目立川談志、八代目三遊亭圓楽、二代目古今亭志ん朝。そして八代目橘家円蔵だった。ついに4人とも鬼籍に入ってしまった。

この4人を「四天王」に決めたのはTBSの川戸貞吉だった。
他の評論家は円蔵の代わりに五代目春風亭柳朝を入れる人が多かった。春風亭小朝の師匠だ。確かに柳朝の方が本格派の噺家であり、古典の四天王というなら爆笑型の円蔵よりもふさわしいように思えたが、円蔵をいれたところに、妙味があったように思う。

上方落語協会に勤めているときに、この4人に挨拶をした。
立川談志は、私が米朝が出ている舞台の袖にいると、初対面にもかかわらず話しかけてきた。「ここらへんが、米朝兄貴のすごいとこなんだよな。あんた事務員さんかい」実に気さくで親切だった。
圓楽は名刺を渡すと、にこやかに笑って杉板で作られた立派な名刺とぽち袋をくれた。袋には1万円入っていた。
志ん朝は名刺を渡すと「そうすか」と笑って言っただけだった。楽屋での出待ちでもあり、心ここにあらずという印象だった。
そして円蔵は、名刺を渡して早口で「この名刺三枚集めたら、靴ベラになりますから」と言った。

円蔵はいわば、昔の「幇間」の調子の良さをメディア向けに増幅したような芸風だった。
ぽんぽんと早口でくすぐりをまくしたてる。
五代目月の家円鏡時代は兄弟子の三代目林家三平と並ぶ売れっ子だったが、寄席でバカ受けしていたのが
「円鏡、おめえ、テレビばっかり出て、落語やらねえじゃないか、って言われたんで、いってやったんですよ、
やりましたよ、こないだ、かくし芸大会で!」
子供のころ、正月特番の「かくし芸大会」は、本当に楽しみな番組だった。正月に紋付を着た円鏡を見ないと年が明けた気がしなかった。

しかし円蔵は、林家三平とは違っていた。
三平はホール落語などに出てもネタらしきものはほとんどやらなかった。
せいぜい「源平」だが、これはセリフのやり取りのない「地ばなし」であり、漫談の延長のようなものだ。
三平の偉いところは、そういう漫談ばかりやりながら、寄席の香盤に居並んで違和感がなかったことだ。ネタはしなくても、その話芸は「落語」だったのだと思う。このあたりが同系統の他の噺家と違うところだ。それに三平は素晴らしく声が良かった。

わき道にそれたが円蔵は、おにぎやかな存在としては、三平と同じ位置にいたが、古典落語をきっちりと演じた。
いわゆる落とし噺にくすぐりを満載して、まくしたてるのである。
甲高い声、スイングするような調子、お客もろとも猛スピードで走っているようだった。

「反対俥」は代表作だろう。暴走人力車の迫力がすごかった。
「こないだなんか、急行電車と競争をして、品川の駅で抜いたんですから!」
には笑った。

「堀之内」のあわてもののナンセンスさもすごかった。

そして「火焔太鼓」。五代目古今亭志ん生以降ではこの人ではなかったか。
古道具屋の甚兵衛さんのニンが円蔵にぴったりだったのだ。
「火焔太鼓」は息子の二代目志ん朝によって洗練されたと言えるだろうが、違った方向性で、円蔵もこの噺を継承したと言って良いのではないか。

「木曽節」の賑やかな出囃子がかかると「上野鈴本」あたりではお客が沸いた。あたふたと小走りに高座に上がる。メガネをかけた噺家の嚆矢でもあった。

最近まで高座に出ていた。さすがに口跡はやや重たくなり、切れ味も悪かったが、人気者のオーラは失せなかった。

ところで「橘家円蔵」という名跡は、六代目までは三遊亭の重要な名前だった。橘家という亭号は、三遊亭の紋である「結び橘」から来ている(他に紋としては「高崎扇」もある)。三遊亭のエリートの噺家が継ぐべき名前だった。
四代目円蔵、通称「品川の円蔵」は、立て板に水の滑舌の良さで知られた江戸前の名人、その弟子で、義理の親子である五代目、六代目の円蔵は、後にそれぞれ五代目、六代目の三遊亭円生になっている。
そういう大事な名前を、六代目円生は八代目桂文楽門の四代目月の家円鏡に継がせてしまった。これが七代目円蔵、その弟子が八代目円蔵だ。
三遊亭の正統の後継者であることを自他ともに認じていた六代目円生だが、これはいただけない。このために、橘家の名跡はずいぶんよじれてしまった(七代目円蔵については、wikipediaにぼろくそに書かれているが、これはひどいと思う)。一応このことも書いておきたい。

円蔵は、三遊亭円歌(歌奴)、三遊亭金馬(小金馬)などとも並び称されたが、噺家としてはこの二人よりはかなり上等だったと思う。


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