良いお店を知っているとか、食材にうるさいとか、微妙な味の差がわかるとか、「食通」には、いろんな定義ができるだろうが、私は「食通」とは、「魚をきれいに食べることができる人」のことだと思う。

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うちの親父は徳島県の出身で、海や川に縁があるところで育ったが、母が早くに死んで、家庭の味を知らないで大きくなった。
だからだと思うが、焼き魚や煮魚などの魚料理が嫌いだった。もっぱら肉。そういうこともあって、我が家ではあまり魚料理が食卓に並ばなかった。

私も小さい時は魚が好きではなかった。特に干物なんかは何がうまいのだろうと思っていた。
食卓に魚が出ても、柔らかくて食べやすそうな身だけをつまんで、あとは適当に食べ散らかしていた。
魚は肉に比べてはるかに複雑だ。骨や皮があるし、白身のところも血合いもある。内臓や卵巣、精巣などもある。そういうごちゃごちゃしたのが少し気味が悪くて、じゃま臭くもあり、魚と聞くと、少しだけいやだなと思っていた。

社会人になって、職場の同僚と食事や飲みにいくようになったが、あるとき、同僚が焼き魚を注文した。
彼は仲間と話しながら、箸の先でちょこちょこと魚をつまんでいたのだが、あっという間にきれいに平らげた。残っているのは小さな骨が数個だけ。それも皿の端っこにきれいにまとめてある。
皮も身も、血合いの部分も、ワタも、柔らかくて食べることができるひれの軟条のあたりも、全部きれいになくなっていた。
同じ焼き魚を注文した仲間の皿は、骨や皮や細かな身が散乱し、無残なありさまだった。

彼は大阪の会社社長の息子であり、学生時代から父に連れられて酒席に連なるような人間だった。親から大阪商人のマナーを仕込まれて大きくなったのだと思う。
魚のきれいな食べ方もそういう育ちの中で身に着けたのだろう。

後に裏千家さんの仕事をするようになって、家元に連なる方と食事をすることもあったが、やはりそういう人も魚の食べ方は見事だった。こういう人は食べ方がきれいなだけでなく、早いのだ。魚を食べる段取りがわかっているのだと思う。

それから私は意識して魚をきれいに食べようと思った。
つまるところ、きれいに食べる、とは「食べられる部分はすべて美味しくいただく」ということだ。食べ終わった皿の上には、どうしても食べられない部分だけが少しだけ残るのが理想だ。

その意識が身についてから、これまであまり箸が伸びなかった部分も味わうようになった。例えばさんまの「わた」。えらの奥にある心臓や腸など。気持ち悪いと思っていたが、かみしめるとほろ苦い味がある。鮮度によって「わた」の味わいはずいぶん違うのだ。

そして頭や顔の部分。南蛮漬けは若いころは苦手で頭を残したりした。
しかし小鰺など頭からかぶりつくと、何とも言えない香ばしい香りが鼻に抜ける。揚げられ、酢につけられてもろくなった頭の骨が、口の中で崩れていく食感は快感と言ってよかった。
鯛の頭の部分、頬や目の周辺のゼラチン質のところも、美味しいと思うようになった。

皮と身の間の部分。フグなどは「身皮(みかわ=三河)のとなり」でとおとおみ(遠江)と洒落言葉で言ったりするが、脂がたっぷり乗っている。
青魚のこの部分には独特の生臭みがあって子供のころはいやだった。でも、皮ごと箸で巻き込んで、掬い取るように食べると、何とも言えない香りが広がる。この香りは、魚によって違う。サバ、さわら、あじなど、切り身の姿は似たようなものだが、この部分の香りはその魚独特のものだ。それを知って、食べ比べをするようになった。

そういう楽しみを覚えたのは30歳くらいからだ。
そんな目で見ると、魚の楽しみ方は肉よりもはるかに複雑で奥が深いことがわかってきた。
そもそも肉は種類が少ない。牛、豚、鶏、せいぜいカモなどのジビエだ。和牛と国産牛、輸入牛は味が違うというが、たいして差はない。部位によって味も調理法も違うが、それもそんなにバリエーションはない。
何より、肉にはカモなど一部を除いて季節感がない。冬に食べるステーキと、夏に食べるステーキで味が変わることはないのだ。

魚は無数と言ってよいほど種類がある上に、季節によって味わいも随分変わる。
関西ではタイを珍重するが、真冬の太ったタイと、夏の麦わらダイでは、刺身の味さえ違ってくる。
食べ方も刺身から湯引き、煮る、焼く、蒸す、あぶる、たたく、などなど無限と言ってもいい。
日本料理が世界最高の料理と言われるのは、こうした多彩な料理法がある魚を中心に据えているからだ。四方を海に囲まれた島国の恵みを生かして日本料理は進化したのだと思う。

日本人は、魚を食べつけているから味の微妙な差や鮮度の良し悪しなどの感覚が鋭くなるのだろう。

最近は、若い人が「魚は骨があるから苦手」というのを聞いたりすると「それは、鳥もええが、飛びよるのが気に食わん、言うてるのと同じやで」と偉そうなことを言ったりするが、魚が好きになったのはたかだかここ二十数年のことなのだ。
しかし「魚がおいしい」と思うようになって、食事が楽しくなったのも事実だ。ホテルの朝食に出てくる一皿の干物だって、ごちそうに思えてくる。

おそらく「魚が好きになる」ということは、食べることにどん欲になる、ということなのだろう。

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