7月10日に逝去していたが、見落としてしまった。良い噺家だったので振り返っておきたい。
東京落語には「三代目桂三木助遺弟」というグループがある。
八代目桂文楽の江戸前落語の後継者として、「芝浜」に代表される名品、佳品を残した桂三木助の弟子だ。
出世したのが遅かったため、59歳で三木助が死んだときに、一人前になっている弟子はいなかった。
それぞれ別の師匠に入門しなおした。

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当時もっとも生きのよかった師匠の弟子だっただけに多士済々、異なる亭号、芸名になったが、それぞれひとかどの噺家になった。
このほかに三木助には実子がいた。親友だった五代目柳家小さんに入門し、のちに四代目三木助となるが、自殺した。

さて、扇橋は五代目柳家小さんに入門しなおす。26歳という遅い入門だったためにすでに30歳だったが、めきめきと頭角を現す。
落とし噺が主流の小さん一門にあって、扇橋は、人情噺も含めた幅広い話を手掛けた。

端正な語り口、少し歌い調子だったが、それが格調を与えていた。しっとりした落ち着いた芸風。上等の噺家というイメージがあった。

「ねずみ」「小言幸兵衛」「加賀の千代」「三井の大黒」「竹の水仙」。
名人物が良かったように思う。若いころに職人をした経験があったようだが、それが生きていたのかもしれない。
「文七元結」「富久」「芝浜」「鰍沢」
圓朝系の大ネタも得意だった。
六代目三遊亭圓生に目をかけられた。圓生は落語協会の分裂騒動の主人公で、扇橋の師匠の五代目小さんと対立したが、どの門下の弟子でも見込みがあると思えば、一門や協会が違おうともわけ隔てなく稽古をつけ、薫陶した。
そういう意味では入船亭扇橋は、桂文朝、桂歌丸らと芸の上では兄弟弟子だと言えよう。
上野鈴本や国立劇場の常連、人気落語家だった。

上方の桂文紅(1932-2005)とは同世代であり、仲が良かった。
ずいぶん前に文紅師とお茶を飲んでいて、「扇橋のやつ、このごろ首が揺れとるなあ、中風やなあ」と言ったのを覚えている。
50歳になるかならないかの頃から、扇橋は首が左右に細かく揺れるようになったのだ。
噺家にとって中風は非常につらい病気だ。少し前から当代桂文枝も首が小刻みに揺れるようになったが、苦労をしていることだろう。

扇橋はマクラを振っている間は首が揺れているのが気になったが、噺に入ると気にならなかった。ストーリー展開がうまく、噺に引き込まれるので気にならなくなったのだ。
しかし晩年は呂律も怪しくなり、聞くのがつらい状態になっていた。

入船亭扇橋は、「東京やなぎ句会」の宗匠だった。俳名は光石。
僚友の柳家小三治や桂米朝、永六輔、小澤昭一、大西信行、加藤武、矢野誠一、江國茂、三田純市、永井啓夫、神吉拓郎。昭和のテレビ、演芸会の人気者が集まった異色の句会だった。正岡容の門下生が多かった。

よく吟行にも出かけたが、一行を乗せた電車がある駅に止まっていたところ、隣に見慣れない列車が止まった。昭和天皇のお召列車だった。天皇陛下がお顔を出された。戦中派揃いの句会のメンバーは欣喜雀躍し、車窓からかわるがわる愛想を振りまいた。陛下は日ごろからテレビでなじみの人気者に思わぬところで遭遇し、すこぶる上機嫌だったという。
今年、桂米朝、加藤武、そして宗匠の扇橋も死んでしまった。すでに小澤昭一、江國茂、三田純市、永井啓夫、神吉拓郎はない。寂しいことである。

扇橋の功績は良い弟子をたくさん作ったことだろう。

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師匠としても一流だった。直系の弟子は還暦を越えベテランになりつつある。

もう一度音源を聞きなおしたい。なつかしい噺家だった。

そろそろ本屋さんに並んでいます。ぜひお求めを。