1930年生まれ。先代桂文枝と同い年。85歳は大往生と言えるだろう。通称三代目。「上方落語四天王」はこれで完全に歴史の中の存在になった。
有名な初代桂春団治が胃がんで死んだときに、三代目は4歳だった。
二代目春団治の名を初代桂福団治と、初代桂小春団治が争い、吉本興業の後ろ盾を得た福団治が二代目を襲名。三代目はこの二代目春団治の実子だ。

二代目春団治は「春団治十三夜」というライブの音源を残している。
「我々昭和生まれは」で笑いを取っていた。時代を感じさせる。
「猫の災難」「阿弥陀池」「打ち飼い盗人」「寄合酒」。
上方独特のもっちゃりとした語り口調だが、噺の構成はしっかりしていて聞きやすい。時に濃厚な演じ方をするが、それでも嫌味にならない巧みさがあった。懐の深い噺家だった。
「猫の災難」の「酒は米の水、きちがい水よ」という酔っぱらいの歌が耳に残っている。

この芸風は実子の三代目春団治には受け継がれなかった。
ぎらぎら脂ぎった芸風は、三代目の弟弟子である二代目露の五郎兵衛に色濃く受け継がれた。この人も故人。

三代目春団治は、父親とは全く異なる。誰の影響を受けたのかはよくわからないが、噺そのものはいたって地味で、愛想がなかった。マクラもほとんどふらなかった。
しかし、本人に天性の「華」があり、何とも言えない色気があった。

「野崎」の出囃子がかかると、舞台袖で深々と一礼し、中腰でゆっくりと出てくる。高座に上がるとうつむきながら、ぼそぼそと話し始める。
「われわれの方は、まいどかわりません、ばかばかしいお笑いを申し上げまして、すぐさまお後と交代いたします」
元気の良い時は、「すぐさま」で少し大きな声を出して、客席がわくことがあったが、いたって地味。

本題にかかると、羽織を脱ぐ。これがたまらない見ものだった。両方の羽織の袖に指をかけて、一気に羽織を引く。羽織がすとんと落ちて着物が現れる。
春団治の家の紋「花菱」が滑り落ちて、その下からまた着物の「花菱」が出てくる。
芝居の「引き抜き」を見るような心地よさがあった。
「羽織脱ぐ 姿も舞の 春団治」

持ちネタは少なかった。
聞いたのは
「いかけ屋」「祝いのし」「お玉牛」「親子茶屋」「子ほめ」「皿屋敷」「代書」「高尾」「月並丁稚」「野崎詣り」「寄合酒」「有馬小便」「色事根問」「宇治の柴船」「寿限無」「平林」

他にもあったようだが、私はこれだけだ。
200以上はあると言われる桂米朝、笑福亭松鶴などに比べてあまりにも少ない。

誰にでも親切だった桂米朝が、一升瓶を手に春団治宅に押しかけて
「一(はじめ 春団治の本名)ちゃん、わしの噺を覚えてくれ」とネタをつけた。「代書」「皿屋敷」「親子茶屋」などは米朝譲りである。

春団治がえらいのは、こうしたネタがすべて「珠玉の出来」になったことだ。
ネタをつけた米朝とは異なる方向性で、磨き上げていった。

春団治は落語を「きれいごと」にする名手だった。
「代書屋」では、「一行抹消」と履歴書に墨を入れる代書屋の指先がぴんと反って美しかった。
「お玉牛」、「とっつるがん」という嵌めモノ(背景音楽)に乗って男が夜這いをかけるシーン。この卑劣な男も美しかったのだ。
そうしなければならない必然性はない。リアリズムではない「無意味の美」ともいうべき魅力があった。
ごくたまにしかやらなかったが、「宇治の芝舟」もよかった。この落語は大正期くらいが舞台。自動車が出てくる。春団治がやると、におい立つような戦前の風情が醸し出されたものだ。

一時期、「三枚起請」を繰っていた(練習していた)ことがある。それを聞いて私は、若い弟子に「テープレコーダーで録音してくれたら1万円やる」と言った覚えがあるがうまくいかなかった。

いつも淡々と演じる春団治だったが、ごくたまに気合が入ったときは、心底素晴らしかった。
30年ほど前、楠本喬章という神戸のプロモーターが東西の大師匠による「東西落語名人会」をやっていた。夏場のこの会は、当時の上方落語界の最大のイベントだった。松竹芸能がこの顔ぶれを丸ごと借りて、昔の角座で落語会をしたこともある。

私は神戸文化ホールの楽屋で、五代目柳家小さん、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽、八代目橘家圓蔵などにはじめて挨拶をした。今やみんな故人である。この顔ぶれと、上方落語四天王や桂枝雀、笑福亭仁鶴などが共演するのだ。今から考えてもため息が出る。

ある年、古今亭志ん朝が「井戸の茶碗」をたっぷりとやった。私はこの話を東京でも、名古屋でも聞いたが、出来はこの時が一番だった。
そのあとに上がった春団治は「皿屋敷」を演じたが、これが実に素晴らしかった。終わった後、お客がしばらく立ち上がらなかった。熱に浮かされたようになった。
私はこの日のことを一生忘れない。

三代目は、私が上方落語協会事務局に就職した時の会長だった。当時、ダイエー京橋ショッパーズプラザでやっていた「島の内寄席」で初めてあいさつしたときに、財布をもらった。そこにシルバーのマーカーでサインをもらった。
「仲間内になるのにけったいな」と言いながらサインをしてくれた。私がキャップを取らずにマーカーを渡すと、春団治は一瞬、眉間に稲妻を走らせた。弟子ならば怒鳴りつけられていたことだろう。

しばらくたって、落語協会のお金が無くなって、給料がもらえなくなった。事務局長の先代桂米紫と連れ立って、遠里小野の春団治の家に行った。
大師匠の家とは思えない、質素で小さな家だった。
黙って事情を聴いた春団治は、階段の下のふすまを開けて、斜めになった押入れから小さな手文庫を出し、お金をくれた。

書いていくうちに、いろいろなことが後から後から思い出される。
三代目桂春団治はこの世にいない。そのことを改めてかみしめている。


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