うちの奥さんは大ファンだが、三谷幸喜と言う脚本家には、あまり注目したことはなかった。しかし「真田丸」のうまさには、舌を巻く。あれだけ濃厚な人間描写はちょっとないのではないか。
よく時代劇は「史実に忠実」であるべきだ、というが、史実に忠実なこととリアリティがあることとは、似て非なるものだ。
へぼな時代劇は、衣装や時代考証や事実関係などが正確であっても、肝心の人間描写がへたくそで、まるで学芸会のようになる。
学芸会も金をかけて豪華にやれば、歌舞伎になるが、中途半端な金のかけ方だと見てられない。最近のテレビ時代劇はたいていそうだ。

時代考証など細部はきっちり詰めるとして、人間関係や歴史の流れなども綿密に調べたうえで、そこにキャラクター設定が十分になされた人物を置いてみて、彼らはどんなことを言うのか、どんな行動をとるのかを、描いてみる。
彼らが口にしそうなセリフや所作を頭に思い浮かべてみる。ごく自然にわいてきたその言葉を、そのまま文字にしていく、そんな感じで台本を書いているのではないかと思う。

大事なのは、キャラクター設定の彫りこみの深さだ。単に「いいやつ」「ずるいやつ」ではなく、「いいやつだが、トラウマがある奴」「ずるいやつだが、妙に親切なやつ」など、キャラに陰影をつけ、その人間の嗜好や性癖、趣味の類までまとわせていく。まるで昨今のフィギュアのように精巧な人間像を作っていく。そういう力が必要だ。

黒澤明は若手の脚本家や助監督に「脚本を読みこめ」といったようだが、三谷幸喜はおそらく恐ろしい量の脚本を読んでいるのではないか。ビリー・ワイルダーが好きだと聞いたことがあるが、「サブリナ」とか「アパートの鍵貸します」とか「フロントページ」とか、全部頭に入っているのではないかと思った。

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一番感心したのは、遠藤憲一扮する上杉景勝と、堺雅人の真田信繁が、小日向文世の豊臣秀吉の招きで、桂文枝の千利休の茶席に招かれるシーン。
千利休は、一畳台目の茶席を考案したと言われる。畳二畳に足らない狭い茶室に、4人もの人間が入る。
亭主の利休、正客の秀吉、次客の景勝がいる茶室に、せまい躙り口から信繁が入る。
立錐の余地もない感じとなる。
慣れない茶の湯に、信繁は緊張する。景勝とて、たしなみがあるわけではない。
それまで、命のやり取りをしていた戦国武将たちが、膝を接するような狭い空間で、茶碗の茶を回し飲みするのだ。何とも言えない雑念が渦巻く、息の詰まるようなシーンだ。

私は昔、裏千家の茶の湯の本のリライトをしたことがあるが、利休が完成した茶の湯とは本来そういうものだと聞いた。

刀を抜くことさえできない狭い空間で、小うるさい作法を守りながら茶を飲むのは、茶の湯に通じた人間でも神経を使う。ましてや素人は、緊張の極に達する。
秀吉は、そういう状況に名だたる武将たちを追い込んで、彼らの肚を見透かし、度量を見極めようとしたのだ。
ある茶の宗匠は私に「緊張もせえへん茶席なんか、意味がないがな」と言ったが、利休の茶の湯とはそういうものだったのだろう。
その緊張があるから、ついつい本音もこぼれるし、謀議が成立したりもする。
千利休が、秀吉の政治顧問のようになり、隠然たる力を持つようになったのもうなずける。

「真田丸」の茶室のシーンの、小日向文世の豊臣秀吉の小ずるい目の動きは最高だった。
今やプライベートでも落剝した文枝の利休の異様な存在感もすごかった。
これは凡百の大河ドラマとは違うわ、と感心した。

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三谷幸喜脚本が優れている分かりやすい例を一つ。
前の放送の最後、草刈正雄扮する真田昌幸が、秀吉の命で内野聖陽の徳川家康の与力にさせられ、面会に行く。家康には快事、昌幸には屈辱的なことだ。
安っぽい脚本家であれば家康に
「あの真田昌幸ともあろうものが、このざまだ」とか
「いらざる抵抗をしたものよ」
などと言わせたのではないかと思うが、三谷の家康は
「これからは、ともに力を合わせて天下泰平を目指しましょうぞ(正確には覚えてないけど)」
みたいな殊勝なことを言うのだ。しかし、そのセリフの途中で家康は笑いがこみ上げてきて、最後は哄笑する。建前の奥から本音が透けて見える、さもありなんと思わせる。

いちいちセリフや演技が気に障る長澤まさみというのも、恐らくは何らかの効果を狙ってのことだろう。最近は、あまり気にならなくなった。
こういう深読みができるドラマは素晴らしい。久々に大河ドラマが面白い。



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