「上方芸能」は、大阪なら古書店の天地書房の下の方の棚にずらっとならんでいたものだ。上品だが愛想のない装丁の雑誌だった。

200号で打ち止めと決まったとたん、いきなり人気が出たようでアマゾンにも店頭にもなくなった。せいぜい2000部ほどだから、もう手に入らないかもしれない。
南海ホークス最後の日に大阪球場が超満員になったことを思い出す。
「終わる言うてから、急に駆けつけるのはあかんやろ、常日頃からひいきにしていれば、終わりを迎えんでも済んだのや」

雑誌「上方芸能」は、1968年、当時33歳の木津川計が創刊した(私は一応弟子筋だったので呼び捨てにさせてもらう)。
もとは大阪、北御堂で始まった「上方落語をきく会」の会報誌として始まった。
上方落語は、1950年代には一時「絶えた」と言われた。戦前の師匠璉がほとんどいなくなり、当時20代、30代の六代目松鶴、三代目米朝らが細々と伝統をつないでいた。
「上方落語をきく会」は、「漫才の父」と言われた秋田實や、演芸評論家吉田留三郎などの肝いりでできた落語会だった。
その手伝いをしていた木津川計が秋田實に「やらへんか」と言われて始めたのだ。印刷屋をやっていたことで、声を掛けられたのではないか。

私はこの音源の整理をしたことがあるが、まだ20代の桂枝雀や、明治から寄席に出ていた橘ノ圓都など珍しい音源がたくさん含まれていた。

1974年には上方芸能全般を扱う総合誌になる。
当時、芸能を専門的に取り上げる雑誌は、学会誌などを除いてなかった。小澤昭一が「芸能東西」を創刊したのは1975年だから、それより早かった。

私は1980年の12月にこの雑誌を手伝うようになった。大学2回生のときだった。

お堅い雑誌だった。落語や漫才も含む「芸能」を扱いながら、くすっと笑えるようなページは少なく、学問的な分析や批評が多かった。
木津川計は「都市」と言う言葉をよく使った。「都市の品格」「含羞都市」「都市とヒンターランド」

大阪に根付いた上方文化のパトロンであり、担い手でもあった船場の旦那衆が、大正期から阪急沿線の西宮や芦屋に移り住み、そこから大阪の文化は変質した、とよく話していた。谷崎潤一郎の「細雪」の世界だ。

もともとは高い品格があり、知的で、含羞を知る都市文化だった上方文化が、阪急沿線に退き、そのあとに吉本興業に代表されるような品のない、がさつな笑いが入りこんだ。
吉本の笑いは、大阪や京都近郊の農村に端を発した音頭、そしてその末裔である漫才が起点になっている。
「吉本」は本当の大阪の笑いではない、と説いていた。全く同感だ。

漫才ブームのころ、当時編集部にいた放送作家のかわら長介さんが書いた「漫才の発達史」は質、量ともに素晴らしいものだった。
かわらさんは、編集部に来るときは当時はやりのレッグ・ウォーマーを見につけていて「流行の先端やな」と思ったのを覚えている。今も、明石家さんまなどの番組で健在だ。

また藤山寛美のロングインタビューも空前絶後だったと思う。性狷介なこの人が腹蔵なく話したのは「上方芸能」が興味本位ではないメディアだったからだろう。
珍しく「ダ・カーポ」がその内容を紹介したのを覚えている。

司馬遼太郎や小松左京、藤本義一の原稿や録音もよく届いた。原稿をもらいに行ったこともある。清書したり、文字起こしをしたりした。贅沢な話だ。

六代目笑福亭松鶴が死んだときに、資料を調べていたらノーベル賞を取った福井謙一と小学校の同級生だったことがわかり、コメントをもらったこともある。

高知出身の木津川計編集長は酒が好きで、話し好きだった。
校了の日は「泊まり込み」と称し、編集部で徹夜で飲み明かすのだ。
電通のコピーライターが何人か編集部を手伝っていて、私はその一人、三瀬日出男さんの影響でコピーライターになったのだった。
三瀬さんとバーボンをのみ過ぎて、駅でえらい小間物屋をひらいたこともある。

木津川編集長と森西真弓さんの名コンビも忘れられない。森西さんはのちに立命館大学の教授になったが、とにかく聡明で、やるべきことはきちっとやる人だった。今思ってももうしわけないことをいっぱいしたと思う。

私事ばかり並べてしまった。私は途中でケツを割って長く編集部を遠ざかったが、創刊30年記念の論文で、優秀賞をいただいたのはうれしかった。

古い印刷屋の二階で、紙焼きを切り貼りして版下を作り、1階の輪転機で回して雑誌を作る。これをずっと続けてきた(のちにはデジタルになったが)。

思えば孤高の雑誌だった。この雑誌が終わることなど考えられないと思っていたが、もうあの愛想のない誌面を見ることはないのだ。

DSCF5193


本屋さんに並んでいます。ぜひお求めを。