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千代の富士は我々に相撲の原点を思い出させてくれる力士だった。その一点で偉大だった。



古代、相撲は「負けまいと争うこと」だった。「まい」はおそらく「すもう」の「もう」の語源である。根源的な格闘技だったと言ってよい。そして相撲は「技」ではなく、「力」を争うものだった。
日本という国は「小よく大を制す」が根っから好きな民族であるらしく、相撲が宮中行事「節会」であった時代から業師を生んでいる。強力の当麻蹴速は、野見宿禰に敗れるのである。
以後、相撲史には、大剛力士と技巧派力士(手取り)が入り乱れて歴史を紡いでいくのだ。
しかしながら、大相撲の主流にあったのは「膂力」に秀でた力士だったことは間違いがない。
寛政期の雷電為右衛門、幕末の大達羽左衛門、ライバルたる初代梅ケ谷藤太郎、常陸山谷右衛門、太刀山峰右衛門まで、体格の大小はあるにせよ、相撲界を引っ張ったのは「力持ち」の力士だったと思う。
「相撲道」めいたものが生じた明治以降、相撲は「力よりも技」が喧伝されるようになる。

その象徴は双葉山定次だった。
双葉山は体は平凡で、膂力も並みだったが、抜群の下半身を持ち、その安定感で69連勝の大記録を作った。
双葉山が「力士の理想」となってから、「相撲は下半身」が定説となった。
面白いことに、この理屈は野球界にも波及する。野球界も「一番重要なのは下半身」ということになり、その強化のために「走り込み」が重要視されるのである。

双葉山の陰で評価が高くなかったのが、弟弟子の羽黒山だった。この力士はずばぬけた怪力で、成績も双葉に次ぐものだったが、下半身ではなく上体の力で相撲を取ることが多く「本道ではない」という評価が大勢を占めた。

今にして思えば、「栃若時代」の一方の雄、初代(実際は二代)若乃花も「膂力の人」ではなかったか。
全盛期にしばしば見せた「仏壇返し」は、上体のずば抜けた力なくしては不可能な技だったようにも思う。

「双葉山」が神格化される中で、以後の力士は「双葉山にどれだけ近いか」が基準となる。
大鵬は体の柔らかさと盤石の下半身で評価されたが、懐の深さに頼った消極相撲がよくないとされた。
柏戸、北の富士は速攻相撲だったが、「下半身がおろそか」と言われた。
そんな中で「理想的」と言われたのが玉の海だったが現役中に死亡。
輪島は下半身こそ素晴らしかったが下手相撲、北の湖は攻撃型だが背中が反り返るのが「双葉山的ではない」とされた。

そんな中で登場した千代の富士はプロ野球で言えば「ドラフト6位」。幕内まで行けば御の字という力士だった。若い頃は肩の脱臼ばかりしていた。
しかしその肩に肉がみっしりとつくとともに、見違えるような実力を蓄え始めた。
千代の富士は、右四つだったが、とにかく組み止めると、万力のような上体の力で相手の動きを封じ、膂力を生かして相手を料理するのである。
確かにスピード感はあったが「技の力」で相手を下すのではなく「力の差」で退ける。もちろん、そのためには下半身の安定感は必要だが、基本は「上体の力」だった。
抜群の膂力があれば、体の大きさなど問題ではない。これを知らしめた点で千代の富士は偉大だった。

この系譜は二代目貴乃花に受け継がれていく。残念ながら、この系譜はモンゴル力士たちには伝わっていない。

千代の富士は、裏千家に出入りしていた。親方になって挨拶に来るのを3月と11月に何度か見かけた。私が仕えていた伊住政和宗匠(現家元弟)がなくなったとき、九重になっていた千代の富士は千代大海を伴って葬儀に駆け付けた。
手伝いをしていた私の前で、千代の富士は数珠を落とした。小兵力士とはいえ、千代の富士はしゃがんで数珠を拾うことができなかった。私が拾って差し出すと「すいません」とあの若々しい声で礼を言った。そのことが今も鮮烈に記憶に残っている。

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