「感動ポルノ」という言葉は、今の日本メディアの病んだ部分をうまく表現した言葉だ。

身体障碍者、ハンデのある人ががんばっている映像を流す「24時間テレビ愛は地球を救う」を、Eテレの「バリバラ」は直接名指しはしないものの痛烈に批判した。
「バリバラ」は、この言葉を使ったわけではないが、「24時間テレビ」の過度な演出を鋭く批判し、結果的に「感動ポルノ」という言葉を浮き彫りにした。

この言葉は2014年に死んだステラ・ヤングというコメディアン、ジャーナリストが作った言葉だ。

彼女は身体障碍者だったが、学生時代、一般の学生と同じことをしていただけで地域の「達成賞」にノミネートされた。
その後、彼女は教師になったが、生徒から「感動話」をせがまれた。
「車椅子の人が学校に来たら、ふつうは人を感動させるような話をするものでしょう?」

彼女はこうした経験を通して、障碍者は「感動ポルノ」として消費されることに気が付いた。
あえて「ポルノ」というどぎつい言葉を使ったのは、この行為の欺瞞性を暴こうとしたからだ。この人は恐ろしく頭がいい。

「ポルノ」は、セックスを快楽のために消費する。ポルノ女優、男優は、見るものに性的興奮、劣情を抱かせるために消費される。
同様に「感動ポルノ」は、身体障碍者を、感動のために消費する。身体障碍者が「何かをする」光景は、見るものに感動(そしていくばくかの優越感と、何か施しをしたような達成感)を抱かせるために消費されるのだ。
ポルノ女優、男優と、身体障碍者は、同じようにさらされ、消費されたということだ。

もちろん「感動」は「性的興奮」よりも高尚だ。人前で性的興奮をしていることがわかれば、ふつうはひんしゅくを買うが、感動しても非難されることはない。
しかしこの手の「消費される感動」は何らかの前向きなアクションや、生活態度の向上につながることはまずない。いわゆる「お涙ちょうだい」であり、一時的な感情の高まりに過ぎない。
その点では「性的興奮」と大して差のない感情の動きと言える。
やや厳しめに言えば、「消費される感動」は、「性的興奮」同様、みっともないものであり、「劣情」と言ってもよいと思う。
本当の「感動」が、自身の心のうちから湧き上がる自然な感情だとすれば「消費される感動」は、外的な刺激によって「疑似感動」を催すことだともいえよう。

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日本人はこの手の感動に弱い。理性で考えればさして感動するようなことでなくても、映像を見せられ、声を張り上げられるとついつい涙ぐんだりする。
先ほど、これはみっともないといったが、すぐ感動する人自体はおそらく悪人ではない。人が好い、あるいはウェットな人なのだろう。ただし知的レベルはあまり高くないのではないか。

問題は、「感動ポルノ」的なるものは、メディアが手もなくひねり出すことができることだ。

「24時間テレビ」は、障碍者の番組だけでなく、その大半が「感動ポルノ」的なものだったといってよいだろう。

さらに言えば、日本の民放テレビは「感動ポルノ」で飯を食っているといってもよいのではないかと思う。
スポーツ中継は、目の前で起こっていることをそのまま伝えればよいはずだが、民放アナは映像にかぶせて声を張り上げ、どうでもよいエピソードをちりばめ、涙腺の緩い視聴者を「感動」させようとする。

日本のテレビは、こういうものばかり作っていては、本当のことを伝えることはできなくなるだろう。
「感動ポルノ」に麻痺しているような視聴者は、今後減っていくと思われるが、こういうリテラシーが低い人々が政治利用されることも考えられる。恐ろしいことだ。

「感動ポルノ」という言葉が広がることはよいことだと思う。障碍者だけでなく、いろいろなシチュエーションにまで拡大解釈されてもよいと思う。
その先はわからないが、いろんなものが怖いヘタレの日本のテレビが「感動ポルノ」という言葉を恐れるようになれば、当面、テレビは変わるのではないか。


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