近代以前の日本人の、障碍者に対する態度は「憐憫」と「無視」と、「嘲笑」だった。これは日本だけではないが。

室町時代以前の日本では、瀕死の人や自力で生活が不能な障碍者は「捨てられる」のが基本だった。
貴族の屋敷で、下僕が死にそうになると、山奥に捨てるのが普通だった。身寄りのない老人も捨てられた。障碍者もそのようにされた。

社会的弱者を労わったり、救いの手を差し伸べる人も中にはいた。
光明皇后が悲田院や施薬院を設けて病人や弱者を救済した話、また鎌倉期の僧侶忍性が、死者を葬り、貧者、病人、弱者を救済したことは有名だ。こうした奇特な人は「聖人」と言われた。

しかし障碍者などの弱者を見捨てる人も、それを救う人も、基本的なスタンスは同じだった。
それは弱者を「自分とは異なる存在」とみなすスタンスだ。
弱者を見捨てる人は「自分と異なる」から見捨て、救う人は「自分と異なる」ことに憐憫の情を感じていたのだ。端的に言えば、弱者は彼らにとって「他者」だった。
当時の人々は、弱者、障碍者は前世の悪行や、先祖の所業のせいであると思っていた。だから彼らの境遇は当然の報いであり、そこに後ろめたさを感じることはなかったのだ。

近世になっても意識はそのままだった。
落語は江戸末期から明治、大正にかけて完成された話芸だが、落語には身体障碍者を笑う噺がいくつもある。最もひどいのが「せむし茶屋」だ。
せむしの旦那が取り巻きを連れて茶屋に遊びに行く。旦那は自分がもてたいあまりに、取り巻きに梅干しを顔につけるなどしてライ病患者を装わせる。茶屋では芸妓も幇間も逃げ回るが、旦那がネタ晴らしをする。安心した芸妓が「旦那も背中のいかき(ざる)を出しなはれ」というものだ。
また「景清」という落語では、失明した男は、庇護者に「めくらはんは世間の世話にならんと生きて行かれへんのやから、可愛がられるようにせなあかん」と説くのだ。

近代までの考えでは、障碍者は「他者」であり、何らかの理由があって「自分たちとは異なる存在」になった人たちだ。他者だから嘲笑もし、憐憫の情を寄せもする。

しかし現代、人権が確立された社会では、障碍者は「他者」ではない。健常者と全く変わらぬ一個の「人」だ。姿かたちは異なっていても同じ「人」だ。「人」は、どんな属性であろうと等しく人権を持っている。
役に立つから、立たないから、美しいから、醜いから、賢いから、馬鹿だから、という理由で人権が制限されたり、差別されたりしてはならないのだ。
障碍者が生きることを手助けしなければならないのは、彼らがかわいそうだからではない。同じ「人」だからだ。障碍者は「私」だからだ。
障碍者などの社会的弱者が差別されている社会は、健常者にとっても生きにくい社会なのだ。
生産的ではないという理由で障碍者を抹殺したナチス・ドイツがどのような社会だったかを考えればそれは明らかだろう。

「24時間テレビ」の障碍者をダシに使った番組が醜悪な「感動ポルノ」なのは、この番組の制作者が、障碍者を「自分自身」ではなく「他者」だとみなして差別感情の裏返しとして「憐憫の情」をかけていたからだ。その視線は、近代以前のものだ。

私は35年ほど前、上方落語協会にいたが、協会には全盲の噺家がいた。彼は、そのときすでに弟弟子のいる中堅クラスだったが、噺そのものは箸にも棒にもかからぬレベルだった。目が見えなくても落語の修業はできるはずだが、師匠は彼に厳しく噺を仕込まなかった。また、彼も落語の何たるかを深く求めなかった。
しかし、彼の周辺には支持者がいて落語会が開かれた。そこではどんな噺をしても、その出来がどうであっても「素晴らしい」と賛辞を贈られるのが常だった。私はそれが不快だった。
その頃はそんな言葉はなかったが、まさに彼がやっていたことが「感動ポルノ」だったからだ。「感動ポルノ」は、障碍者自身が加担して作られることもあるのだ。

昔から、寄席芸人の中には障碍者がたくさんいた。
彼らの中には自らの障害を「売り」にして笑いをとったり、人を驚かせたりするものがいた。また、盲目でも寄席の音曲で名人となった三代目富士松ぎん蝶のような芸人もいた。「感動ポルノ」が生まれる以前の社会では、そうしなければ芸人として生きていけなかったからだ。
彼らは、自分たちを「他者」と差別し、嘲笑する客、好奇のまなざしを向ける健常者から、金をとっていた。そして多くは、健常者よりもはるかに高い見識とプライドを持って生きていた。「差別の笑い」に価値があるとすれば、そういう部分である。
さらに言えば、健常者は障碍者を笑うことによって、自分の貧しさ、醜さに気が付く。これも「差別の笑い」の前向きの意味だ。

NHKの「バリバラ」が特異なのは、この番組の作り手が「健常者と障碍者は同じ」という意識でぬけぬけと番組を作っていることだ。
彼らはいくぶんいたずらっぽい顔をして
「障碍者の漫才」「障碍者の恋愛」「障碍者の婚活」「障碍者のファッション」など、これまでにないテーマを我々に突きつけるのだ。
「健常者と障碍者が同じ」だと心の底から思っているなら、その番組を見て、笑ったり、感情移入したり、あるいは「面白くない」と批判することができるだろう。
しかし多くの人は、脳性麻痺の人がよだれを垂らしながら愛を語ったり、手足が欠損した人が四肢を振って漫才をしたり、寝たきりの人がおしゃれをしたりすることに全く慣れていない。
見てはならぬものを見たような後ろめたさ、気持ち悪さ、そして恐怖を感じるのだ。

実はそうしたネガティブな感情は、障碍者に起因するものではない。それを見る健常者の心の中にあるものだ。障碍者を「他者」だと思い、正視しないできたことによって、心の中に澱のようにたまった「差別感情」を突きつけられて、健常者はたじろぐのだ。
生ぬるい「感動ポルノ」を期待していた自分の貧しさを実感するのだ。

「バリバラ」は4年経つが、まだ実験段階だと思う。どういう展開になっていくのかわからないが、私はこの番組に期待する。

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