毎日新聞のコラムでこの言葉を目にして、今の安倍晋三政権に対する私の感覚は、まさしくこれだと思い当たった。今回の籠池事件では、安倍晋三にまとわりつく「なんとなく嫌な感じ」がはっきり露呈した。
私たちは、安保世代より少し後の世代だ。70年安保のころは小学生だった。安田講堂が放水で水浸しになるのをテレビで見ていたのを覚えている。その後、過激派は「あさま山荘事件」を起こして自壊していったが、そういう事件を目の当たりにしながらも、当時の若者は「左翼の方がかっこいい」と思っていた。若者は、政府、自民党に批判的なのがあたりまえだった。

大学に入って、二部の学生と知り合ったら「日本は再軍備しなければならない」という人がいて、意外な感じがした。私の同級生には、そんなことを言う人はいなかった。
私が通った立命館大学は、民青の勢いが強くて、自治会もそっちの学生に支配されていた。「自分たちが正しいと信じて疑わない」独善性の強さは、今も昔も日本共産党の体質だ。私は彼らは大嫌いだったが、それでも政府、自民党に与するなんて考えられなかった。
それは端的に言えば「かっこわるかった」からだ。当時から「産学共同」という言葉があったが、大学では蛇蝎のように嫌われていた。

当時の自民党は佐藤栄作の長期政権が終わって、三角大福中が政権争いをしていたころだ。野党では社会党が圧倒的に大きく、耳の大きな成田知己や、甲高い声の石橋政嗣(この人まだ生きている!)、足の悪い飛鳥田一雄などと言う政治家がいた。
自民党と社会党は二大政党であり、国会では侃々諤々の論戦を展開していたが、今から思うとそれは歌舞伎の芝居のようでもあった。北の湖が横綱になったときに支持政党について聞かれて「自民党と社会党、小さい政党は嫌い」と言ったのが印象的だった。
自民党は、社会党と言う反対勢力があることで、暴走せず、それなりの抑制ができていたのかもしれない。

メディアは大半が「野党寄り」だった。朝日、毎日だけでなく、正力松太郎以来自民寄りの讀賣も、政府批判の色が強かった。当時は黒田清などうるさいジャーナリストがいたからだろう。ナベツネが彼らを追い出すのはその後のことだ。サンケイ新聞だけが御用商人宜しく政府寄りだったが、若い世代はみんな馬鹿にしていたものだ。
自衛隊の演習で死者が出て中止になったときにサンケイは「米軍の演習では死者が出たからと言って中止することはあり得ない」と書いた。私はサンケイを心底にくらしく思った。

昭和の時代から、右翼は存在した。街宣車を繰り出して大企業の前で大騒ぎをするのをよく見かけた。鶴田浩二の軍歌を大音量で鳴らすのが定番だった。当時の人は彼らが「政治活動をしている」とは思っていなかった。大阪、福島の駅前で、ミニパトが街宣車の前に立ちはだかり、女性警官がマイクで「道交法違反です」と叫んでいるのを見たことがある。周囲の人々は「がんばれ姉ちゃん」と声援を送っていた。
彼らはまともな人間ではなく、金が欲しいから騒いでいる。最も卑しい人間だと思っていた。それが常識。右翼は総会屋とともにヤクザの同義語だった。

そして右翼は自民党とは別物だった。中には玉置和郎や藤尾正行のように、右翼を支持する言葉を発する政治家もいた。玉置は国会の質問で戦車の模型をもってきて(もちろん田宮の1/35ミリタリーミニチュアシリーズだ)、新任の防衛庁長官に「この戦車の型式を言ってみろ」と迫っていたが、彼らのグループ「青嵐会」が自民党の主流になることはなかった。ちなみに「青嵐会」は石原慎太郎のネーミングだ。

この時期石原慎太郎は自民右派を代表する若手政治家だったが、私たちは馬鹿にしていた。石原は公開のトーク番組で「日本国憲法は日本語的に正しくない。その一事をもっても改正すべきだ。日本人の言葉にすべきだ」と言ったが、一緒に出演していた小田実に「だったら私は大阪弁に変えますよ」と切り返された。会場は拍手大喝采をし、石原は泣いてしまった。
この頃、石原慎太郎は主婦のアイドルではあったが、若者からはまともな政治家とは思われていなかった。

石原慎太郎ら自民党の極右「青嵐会」は政権中枢に食い込むことはなかった。中川一郎、中山正暉、浜田幸一ら、同会のメンバーも政治家として出世することはなかった。
彼らは反主流であり、保守本流の政治家からすれば煩わしい存在だった。

このことが当時の「自民党」がどんな政党だったかを端的に物語っている。

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