つかこうへいが、「今の共産党は格好悪い。昔のサヨクは格好良かったのに」といったのは、1980年代になってからだと思う。まだソ連は崩壊していなかった。
戦後の共産党は、戦前からのメンバーに加えて、戦後、東大の活動家が組織した「東大細胞」が中心となって活動を始めた。
「細胞」は「政党」みたいなもんだ。昔のインテリが好んで使った言葉だ。
驚かれるかもしれないが、東大細胞には信じられないような顔ぶれがいた。
のちに日本共産党の幹部になった上田耕一郎・不破哲三兄弟がいるのは当たり前だが、渡邉恒雄、つまりナベツネや、パルコやセゾンで一世を風靡した経営者の堤清二、そして日本テレビのドン氏家齊一郎もいた。
東大細胞のメンバーは雑多だった。革命を夢想する過激思想家もいたし、穏健な社会主義者もいた。
しかし、1955年の「日本共産党 第6回全国協議会(六全協)で、これまでの中国寄りだった路線が修正されて、ありていに言えばソ連を宗主国とする体制に代わった。この時期までに多くの活動家が共産党を離れた。
渡邊恒雄のように”右”に転向したものもいたが、「新左翼」となって独自路線を歩んだものもいた。
つかが「格好悪くなった」と言ったのは、そうした「新左翼」的な色合いがなくなり、ソ連の顔色を窺い、硬直化した組織に変わっていった共産党を批判したものだ。
どう考えても格好良かったのは「新左翼」のほうだった。
60年安保、70年安保の学生運動を指導したのは彼らだった。
世界的に「青年の異議申し立て」がブームになっていた。
パリでは1968年に学生たちが革命をよびかけて「カルチェラタン闘争」を行った。翌年、フランシーヌと言う女性がパリで政府に抗議して焼身自殺するが、それをテーマにした「フランシーヌの場合」という歌が、日本で大ヒットした。日本でも「神田カルチェラタン闘争」が起こった。
アメリカではベトナム戦争の反戦運動が盛んになった。
プロテストソング「We Shall Overcome」が世界の連帯を訴えたのもこの時期だ。ビートルズが平和を唄ったのもこの時期。
「左翼」は思想であるとともに「サヨク」というファッションだったのだ。
私が赤塚不二夫を天才だと思ったのは
「天才バカボン」という漫画に、サヨクの女性活動家(重信房子がモデルか?)を登場させ「お茶がほしい」というのを
「あー、あー、我々は一杯のお茶を戦線に加える用意がある」とスピーカーでがならせたシーンだ。
「バカボン」は当時、「週刊少年マガジン」に連載していた。少年漫画誌にさえ「サヨク」は登場していたのだ。
当時の学生やジャーナリスト、知識人、自称知識人は「左であるのが当たり前」だった。新聞も「左」だった。
前田武彦がテレビで共産党が大躍進したのを聞いて「ばんざーい」と叫んで干されたのは1973年のことだ。うっとおしく思いながらも共産党へのシンパシーは一定程度あった。しかし一線を画してはいた。
サヨクであることが格好いい、サヨクでなければ馬鹿に見える。
今、私より上の世代のジャーナリストや文化人の多くが、「サヨクっぽい」のは、この時代の洗礼を受けているからだ。それが格好良かったし、正しいと思えたからだ。
石原慎太郎を馬鹿にし、三島由紀夫を気持ち悪いと言うのが流行っていた(ように思う)。
PARCOや、セゾンなど西武百貨店グループが時代の風を一杯に受けて急成長するのは1980年代のことだが、これを率いた堤清二は、前述のように元東大細胞のメンバーであり、共産党を除名された「サヨク」だった。
セゾングループが時代の寵児になったのは、政治色を脱色して「サヨク」が本来持っていた「かっこよさ」だけを前面に出したからだろう。
その旗手糸井重里も、学生時代は左翼デモに参加している。
バブルのころまでは、サヨクが日本を作っているような「気分」だったのだ。
しかし、実際はそうではなかった。
戦後日本を経済発展させたのは左翼ではなく、官僚と自民党の政治家たちだった。
官僚はプラグマティストだった。そして主な政治家はリアリストだった。
彼らは、日本の経済復興を第一の目標に掲げ、そのために社会の仕組みや、政治体制を変えていった。
その背景にはアメリカの強い意向があったが、日本は、盲従したわけではない。
当時の政治家たちは時に応じて従順であったり、しぶとくネゴシエーションをしたりしてその都度「利得」を引き出していった。
「奇跡」と言われた経済成長は、「アメリカのポチ」という特殊な位置づけを利用して、国全体がうまく立ち回ることで成し遂げられた。
その基本形を作ったのは、吉田茂だろう。
吉田は明治期からの外交官だが、イギリス的な保守の在り方を知り、それを戦後の日本に導入した。
吉田茂の政治の基本は「思想性の排除」にあったと思う。
「かくあるべし」「これが正しい」という固定観念を廃し、常に「何が得か」で動く。
日本が再軍備をしなかったのは「平和思想」ではなく「得」だったからだ。アメリカの核の傘の下で、軍備の負担をすることなく経済発展をするためだった。
高坂正尭の「吉田茂」には、リアリストとしての吉田茂のすごさが描かれている。
吉田がリアリストになったのは、戦前、「思想」が、国を滅ぼした苦い経験があったからだ。
司馬遼太郎は「思想」を発火性が高い酒に例えているが、あたかも強い酒に酔ったかのように自暴自棄に暴れまわった挙句に自滅した戦前への悔恨が、戦後第一世代をリアリストにしたのだ。
その思いは、当時の政治家、官僚、経済人に共通していた。
「サヨク」が、日本中で騒いでいるのを横目で見ながら(おそらく鼻で笑いながら)、彼らは営々と経済大国日本を作ったのだ。
成田基地闘争で、機動隊に殴られて昏倒した学生を介抱した農家のおじさんが、
「兄ちゃん、おめえらでは革命は無理だべ。本当の革命はおれたちがやるんだ」と太い腕で力こぶを作りながら言ったというエピソードがあるが、そんな感じではなかったか。
前にも言ったが、右翼はこの時期、公然勢力ではなかった。裏社会では一部の保守政治家と通底し、暗躍していたことはロッキード事件などで明らかになったが、所詮は汚れ役であり、民衆の前に顔をさらしてモノが言える立場ではなかった。
まだ太平洋戦争で日本を滅亡させたのは、右翼、国粋主義者だという認識を持つ人が多かったことも影響しているだろう。
1960年代から「やくざ映画」が人気となる。その背景には組織化しつつあった暴力団の存在があったが、それを喜んで見て拍手喝采したのは「サヨク」の学生たちだった。
身もふたもない言い方をすれば、左翼も右翼も、バブル期くらいまでは「他愛ない」ものだった。遊びと言っては怒られるだろうが、彼らが騒いでいる間に日本を建設したのは、どっちでもないサラリーマンたちだった。
当時の政治学者(名前は忘れた)が、
「日本には、共産党や公明党など明確な支持基盤がある組織政党と、自民党や社会党のように、ぼんやりとした支持層しか持たない大衆政党がある。
大衆政党が大きくて強いことが、日本の強みであり、経済発展の原動力だ」
と言っていた。融通無碍で、どうとでもなるリアリストたちが、日本を大きくしたのだ。
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驚かれるかもしれないが、東大細胞には信じられないような顔ぶれがいた。
のちに日本共産党の幹部になった上田耕一郎・不破哲三兄弟がいるのは当たり前だが、渡邉恒雄、つまりナベツネや、パルコやセゾンで一世を風靡した経営者の堤清二、そして日本テレビのドン氏家齊一郎もいた。
東大細胞のメンバーは雑多だった。革命を夢想する過激思想家もいたし、穏健な社会主義者もいた。
しかし、1955年の「日本共産党 第6回全国協議会(六全協)で、これまでの中国寄りだった路線が修正されて、ありていに言えばソ連を宗主国とする体制に代わった。この時期までに多くの活動家が共産党を離れた。
渡邊恒雄のように”右”に転向したものもいたが、「新左翼」となって独自路線を歩んだものもいた。
つかが「格好悪くなった」と言ったのは、そうした「新左翼」的な色合いがなくなり、ソ連の顔色を窺い、硬直化した組織に変わっていった共産党を批判したものだ。
どう考えても格好良かったのは「新左翼」のほうだった。
60年安保、70年安保の学生運動を指導したのは彼らだった。
世界的に「青年の異議申し立て」がブームになっていた。
パリでは1968年に学生たちが革命をよびかけて「カルチェラタン闘争」を行った。翌年、フランシーヌと言う女性がパリで政府に抗議して焼身自殺するが、それをテーマにした「フランシーヌの場合」という歌が、日本で大ヒットした。日本でも「神田カルチェラタン闘争」が起こった。
アメリカではベトナム戦争の反戦運動が盛んになった。
プロテストソング「We Shall Overcome」が世界の連帯を訴えたのもこの時期だ。ビートルズが平和を唄ったのもこの時期。
「左翼」は思想であるとともに「サヨク」というファッションだったのだ。
私が赤塚不二夫を天才だと思ったのは
「天才バカボン」という漫画に、サヨクの女性活動家(重信房子がモデルか?)を登場させ「お茶がほしい」というのを
「あー、あー、我々は一杯のお茶を戦線に加える用意がある」とスピーカーでがならせたシーンだ。
「バカボン」は当時、「週刊少年マガジン」に連載していた。少年漫画誌にさえ「サヨク」は登場していたのだ。
当時の学生やジャーナリスト、知識人、自称知識人は「左であるのが当たり前」だった。新聞も「左」だった。
前田武彦がテレビで共産党が大躍進したのを聞いて「ばんざーい」と叫んで干されたのは1973年のことだ。うっとおしく思いながらも共産党へのシンパシーは一定程度あった。しかし一線を画してはいた。
サヨクであることが格好いい、サヨクでなければ馬鹿に見える。
今、私より上の世代のジャーナリストや文化人の多くが、「サヨクっぽい」のは、この時代の洗礼を受けているからだ。それが格好良かったし、正しいと思えたからだ。
石原慎太郎を馬鹿にし、三島由紀夫を気持ち悪いと言うのが流行っていた(ように思う)。
PARCOや、セゾンなど西武百貨店グループが時代の風を一杯に受けて急成長するのは1980年代のことだが、これを率いた堤清二は、前述のように元東大細胞のメンバーであり、共産党を除名された「サヨク」だった。
セゾングループが時代の寵児になったのは、政治色を脱色して「サヨク」が本来持っていた「かっこよさ」だけを前面に出したからだろう。
その旗手糸井重里も、学生時代は左翼デモに参加している。
バブルのころまでは、サヨクが日本を作っているような「気分」だったのだ。
しかし、実際はそうではなかった。
戦後日本を経済発展させたのは左翼ではなく、官僚と自民党の政治家たちだった。
官僚はプラグマティストだった。そして主な政治家はリアリストだった。
彼らは、日本の経済復興を第一の目標に掲げ、そのために社会の仕組みや、政治体制を変えていった。
その背景にはアメリカの強い意向があったが、日本は、盲従したわけではない。
当時の政治家たちは時に応じて従順であったり、しぶとくネゴシエーションをしたりしてその都度「利得」を引き出していった。
「奇跡」と言われた経済成長は、「アメリカのポチ」という特殊な位置づけを利用して、国全体がうまく立ち回ることで成し遂げられた。
その基本形を作ったのは、吉田茂だろう。
吉田は明治期からの外交官だが、イギリス的な保守の在り方を知り、それを戦後の日本に導入した。
吉田茂の政治の基本は「思想性の排除」にあったと思う。
「かくあるべし」「これが正しい」という固定観念を廃し、常に「何が得か」で動く。
日本が再軍備をしなかったのは「平和思想」ではなく「得」だったからだ。アメリカの核の傘の下で、軍備の負担をすることなく経済発展をするためだった。
高坂正尭の「吉田茂」には、リアリストとしての吉田茂のすごさが描かれている。
吉田がリアリストになったのは、戦前、「思想」が、国を滅ぼした苦い経験があったからだ。
司馬遼太郎は「思想」を発火性が高い酒に例えているが、あたかも強い酒に酔ったかのように自暴自棄に暴れまわった挙句に自滅した戦前への悔恨が、戦後第一世代をリアリストにしたのだ。
その思いは、当時の政治家、官僚、経済人に共通していた。
「サヨク」が、日本中で騒いでいるのを横目で見ながら(おそらく鼻で笑いながら)、彼らは営々と経済大国日本を作ったのだ。
成田基地闘争で、機動隊に殴られて昏倒した学生を介抱した農家のおじさんが、
「兄ちゃん、おめえらでは革命は無理だべ。本当の革命はおれたちがやるんだ」と太い腕で力こぶを作りながら言ったというエピソードがあるが、そんな感じではなかったか。
前にも言ったが、右翼はこの時期、公然勢力ではなかった。裏社会では一部の保守政治家と通底し、暗躍していたことはロッキード事件などで明らかになったが、所詮は汚れ役であり、民衆の前に顔をさらしてモノが言える立場ではなかった。
まだ太平洋戦争で日本を滅亡させたのは、右翼、国粋主義者だという認識を持つ人が多かったことも影響しているだろう。
1960年代から「やくざ映画」が人気となる。その背景には組織化しつつあった暴力団の存在があったが、それを喜んで見て拍手喝采したのは「サヨク」の学生たちだった。
身もふたもない言い方をすれば、左翼も右翼も、バブル期くらいまでは「他愛ない」ものだった。遊びと言っては怒られるだろうが、彼らが騒いでいる間に日本を建設したのは、どっちでもないサラリーマンたちだった。
当時の政治学者(名前は忘れた)が、
「日本には、共産党や公明党など明確な支持基盤がある組織政党と、自民党や社会党のように、ぼんやりとした支持層しか持たない大衆政党がある。
大衆政党が大きくて強いことが、日本の強みであり、経済発展の原動力だ」
と言っていた。融通無碍で、どうとでもなるリアリストたちが、日本を大きくしたのだ。
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吉田茂に関しては、1960年になって日米安全保障条約の締結を振り返り、以下のように述べています[1]。
「もちろん私が締結した安保条約は完全なものではなかった。安保条約そのものに明記しているように「国際連合の措置」や「個別的もしくは集団的の安全保障措置」によって日本領土区域の平和と安全が確保されるようになるまでの暫定措置であった。私としては私としては初めから恒久的な、より完全な条約にとって代えられることを予想していたわけである。言いかえると「守ってもらう」関係から「ともに守る」関係へ前進することは当然であると予期していたのである。」
1951年の締結から9年が経っているという点は考慮しなければならないものの、経済優先主義と軽武装主義からなり、戦後の日本の保守派の基本的な政策となったいわゆる「吉田路線」には留まらない複雑さを備えていたといえるでしょう。
吉田のこうした態度は、いわゆる「公式的な」革命観が欠いていた狡猾さなのかも知れませんし、鳩山、大野、石橋、河野ら自民党党人派が吉田、岸、池田、佐藤などの官僚派の前に辛酸を舐めた背景かも知れません。
[1]吉田茂、「新安保条約調印に思う」、日本経済新聞、1960年1月20日朝刊1面。