安倍晋三の「政治の師匠」は、間違いなく小泉純一郎だった。
小泉純一郎は「壊し屋」だった。自身は派閥の領袖でも、実力者でもなかったが「党内での支持」ではなく、「大衆的な人気」を「票」に代えて、自民党を収奪した。
中選挙区制から小選挙区制に移行したことで派閥力学が機能しなくなったこともあり、党首、首相に権力が集中した。
これまで、「派閥の論理」と「官僚との連携」を背景に「合議制」と「緩やかなリーダーシップ」で動いていた自民党を、共産党や公明党のように強い指導力で束ね、様々な改革を行った。
それは一言でいえば「合理化」だった。「平成の大合併」「郵政改革」に象徴されるように、赤字を垂れ流す部門、不採算部門を切りすて、採算部門に統合するというものだった。
小泉の力の源泉は「国民の支持率」だったから、人気取りのためにはなんでもやった。田中真紀子外相の辞任で支持率が落ちると、北朝鮮に自ら乗り込んで拉致被害者を取り戻した。まるで「暴れん坊将軍」のように、国のトップが悪者を成敗し、拍手喝さいを浴びたのだ。
郵政選挙では「私の政策に反対するものは抵抗勢力」と言い放ち、野党のみならず、自党の反対派を根こそぎ殲滅した。
まさにポピュリスト政治家の真骨頂を見せたのだ。
小泉は、人気絶頂のまま首相を退任、後を引き継いだのが安倍晋三だったが、当時の安倍は在来型の政治家であり、旧来の政治の力学に乗っていた。小泉純一郎とは全く違う政治家だった。体調不良で安倍が退任すると、福田康夫、麻生太郎といずれも父親が総理大臣という毛並みの良い政治家が首相になったが、自民党の支持率は低下した。
こうした在来型の政治家は自民党という「政治マシン」の運転手だった。派閥と官僚という二頭の馬の背中に足をかけてこれを御していくタイプだ。しかし、その仕組みは小泉が根こそぎ破壊してしまったのだから、政治が機能するはずがない。
こうして鳩山由紀夫がトップを務める民主党に政権が移ったわけだ。
民主党は確たる信念も政治主張も、政策手腕も持たない政党だ。「自民党に入れてもらえなかった」「自民党から追い出された」政治家が、サヨクの残党とくっついてできていた。自民党の「二軍」であり、二大政党などおこがましいような政党だったから、政権を握ったとたん信頼を失った。
そして再び自民党、安倍晋三にお鉢が回ってきたわけだ。
安倍晋三は、在野の時代にいろいろ考えを巡らせていたはずだ。
一つは、師匠の小泉純一郎の手法を完全にトレースし、ポピュリスト政治家になること。国民の気を引くような政策を打ち出すとともに、対立軸を明確にし「誰が敵か」を国民に常に提示しようと考えた。
二つ目は、景気を浮揚すること。バブル期以降、財界だけでなく、一般の日本人も景気動向に敏感に反応するようになった。小泉純一郎とは異なり、人間的魅力に乏しい安倍は「経済」が「大衆的人気」を獲得するキーになると考えたのだ。
本格的な景気浮揚ではなく、小手先で、すぐに成果が表れるような政策を優先したのは言うまでもない。
その上で安倍は自らの「思想」を「政治」に体現しようとした。
それは祖父、岸信介の「悲願」であった「理想国家建設」だった。岸は満州国で、エリート官僚と一部政治家が国家を主導する彼の「理想国家」を建設しようとして挫折した。
戦後政界に復帰してからも岸は、一握りのエリートによる「強い国家の建設」を目指していた。経済力だけでなく、軍備も備えた国家を作ろうとしていた。「憲法改正」は再軍備のためには必然だった。岸は戦後はソ連など東側との対立を深めるアメリカの後ろ盾を得て、それを推進しようとしたが、自民党内にもこれに反対する勢力が多く、実現できなかった。
安倍は次に権力を握ったら、祖父の悲願を実現しようと考えていた。
師匠の小泉純一郎には、こうした「思想性」はなかった。のちに突然原発推進反対を表明したように、無邪気なほどにノンポリだった。彼は自らが案出した政治手法で権力を掌握し、思いのままに政治を壟断したことですでに満足だった。
しかし安倍は権力を収奪したのちに自分の「思想=祖父の悲願」を実現することをはっきりと意識していた。
安倍の思想はいわゆる「皇道派の右翼」ではなかった。天皇親政の国家を作る気は毛頭ない。昨年、今上が「退位の意向」を表明して以来、天皇の退位、譲位に関するルール作りが進んだが、その過程で安倍が天皇の気持ちを「忖度した」形跡は全くない。天皇は、安倍政権に懸念を示していると考えられるが、安倍は天皇の「退位表明」を奇貨として、天皇の国家、国民への影響力を殺ごうとしている。
在野の期間、安倍はこうしたことに思いを巡らせ、満を持して二度目の政権に就いたのだ。
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中選挙区制から小選挙区制に移行したことで派閥力学が機能しなくなったこともあり、党首、首相に権力が集中した。
これまで、「派閥の論理」と「官僚との連携」を背景に「合議制」と「緩やかなリーダーシップ」で動いていた自民党を、共産党や公明党のように強い指導力で束ね、様々な改革を行った。
それは一言でいえば「合理化」だった。「平成の大合併」「郵政改革」に象徴されるように、赤字を垂れ流す部門、不採算部門を切りすて、採算部門に統合するというものだった。
小泉の力の源泉は「国民の支持率」だったから、人気取りのためにはなんでもやった。田中真紀子外相の辞任で支持率が落ちると、北朝鮮に自ら乗り込んで拉致被害者を取り戻した。まるで「暴れん坊将軍」のように、国のトップが悪者を成敗し、拍手喝さいを浴びたのだ。
郵政選挙では「私の政策に反対するものは抵抗勢力」と言い放ち、野党のみならず、自党の反対派を根こそぎ殲滅した。
まさにポピュリスト政治家の真骨頂を見せたのだ。
小泉は、人気絶頂のまま首相を退任、後を引き継いだのが安倍晋三だったが、当時の安倍は在来型の政治家であり、旧来の政治の力学に乗っていた。小泉純一郎とは全く違う政治家だった。体調不良で安倍が退任すると、福田康夫、麻生太郎といずれも父親が総理大臣という毛並みの良い政治家が首相になったが、自民党の支持率は低下した。
こうした在来型の政治家は自民党という「政治マシン」の運転手だった。派閥と官僚という二頭の馬の背中に足をかけてこれを御していくタイプだ。しかし、その仕組みは小泉が根こそぎ破壊してしまったのだから、政治が機能するはずがない。
こうして鳩山由紀夫がトップを務める民主党に政権が移ったわけだ。
民主党は確たる信念も政治主張も、政策手腕も持たない政党だ。「自民党に入れてもらえなかった」「自民党から追い出された」政治家が、サヨクの残党とくっついてできていた。自民党の「二軍」であり、二大政党などおこがましいような政党だったから、政権を握ったとたん信頼を失った。
そして再び自民党、安倍晋三にお鉢が回ってきたわけだ。
安倍晋三は、在野の時代にいろいろ考えを巡らせていたはずだ。
一つは、師匠の小泉純一郎の手法を完全にトレースし、ポピュリスト政治家になること。国民の気を引くような政策を打ち出すとともに、対立軸を明確にし「誰が敵か」を国民に常に提示しようと考えた。
二つ目は、景気を浮揚すること。バブル期以降、財界だけでなく、一般の日本人も景気動向に敏感に反応するようになった。小泉純一郎とは異なり、人間的魅力に乏しい安倍は「経済」が「大衆的人気」を獲得するキーになると考えたのだ。
本格的な景気浮揚ではなく、小手先で、すぐに成果が表れるような政策を優先したのは言うまでもない。
その上で安倍は自らの「思想」を「政治」に体現しようとした。
それは祖父、岸信介の「悲願」であった「理想国家建設」だった。岸は満州国で、エリート官僚と一部政治家が国家を主導する彼の「理想国家」を建設しようとして挫折した。
戦後政界に復帰してからも岸は、一握りのエリートによる「強い国家の建設」を目指していた。経済力だけでなく、軍備も備えた国家を作ろうとしていた。「憲法改正」は再軍備のためには必然だった。岸は戦後はソ連など東側との対立を深めるアメリカの後ろ盾を得て、それを推進しようとしたが、自民党内にもこれに反対する勢力が多く、実現できなかった。
安倍は次に権力を握ったら、祖父の悲願を実現しようと考えていた。
師匠の小泉純一郎には、こうした「思想性」はなかった。のちに突然原発推進反対を表明したように、無邪気なほどにノンポリだった。彼は自らが案出した政治手法で権力を掌握し、思いのままに政治を壟断したことですでに満足だった。
しかし安倍は権力を収奪したのちに自分の「思想=祖父の悲願」を実現することをはっきりと意識していた。
安倍の思想はいわゆる「皇道派の右翼」ではなかった。天皇親政の国家を作る気は毛頭ない。昨年、今上が「退位の意向」を表明して以来、天皇の退位、譲位に関するルール作りが進んだが、その過程で安倍が天皇の気持ちを「忖度した」形跡は全くない。天皇は、安倍政権に懸念を示していると考えられるが、安倍は天皇の「退位表明」を奇貨として、天皇の国家、国民への影響力を殺ごうとしている。
在野の期間、安倍はこうしたことに思いを巡らせ、満を持して二度目の政権に就いたのだ。
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小学生の時、祖父へのバッシングは凄まじかったらしいです。