月亭可朝の出囃子は「あゝ それなのに」だった。
空にゃ今日もアドバルーン さぞかし会社で今頃は おいそがしいと思うたに 
あゝ それなのに それなのに ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう



1936年、芸者上がりの歌手美ち奴が歌って大ヒットした。古賀政男作曲、サトウハチロー作詞ではあるが、後に発禁になる。噺家の出囃子と言えば、歌舞伎の合方か人形浄瑠璃と相場が決まっている中で、ずいぶん退廃的なイメージだった。

私は楽屋では2回しかお目にかかっていないが1983年、京都会館「京都市民寄席」での出会いが強烈に印象に残っている。出演依頼をしても滅多に応じない可朝が、珍しく出演するという。楽屋で待っていたら、パンチパーマにダークスーツの男が二人、アタッシェケースを持って入ってきた。何事かと思ったら可朝のマネージャーだった。その後からのっそりと入ってきた可朝は、誰とも挨拶をせず、楽屋の奥に陣取って着替え始めた。
若手の噺家は誰も近寄らず、古株が遠慮がちに挨拶をしただけ。完全なアウトローだった。

そして例の「あゝ それなのに」の出囃子で上がった。下座には芸者上がりの小林政子師がいたから、そういう曲はお手のものだった。小林師は70歳をこえていて、この後すぐに死んだが、きれいなお姐さんだった。

可朝は着物ではあるが、頭には例のカンカン帽が乗っかっている。金縁、色付きの眼鏡にちょび髭、どこから見ても堅気ではない、噺家としても、まともではない印象だった。

上がるなり、可朝は昭和天皇のマクラを振り始めた。晩年に差し掛かっていた昭和天皇は、口跡が怪しくなっていたが、可朝は唇を震わせてその真似をしたのだ。当時はまだ言論のタブーは少なかったが、それでも主催者側の京都市職員が袖でひやひやしていたのを思い出す。

噺家としては持ちネタは多くなかったが「坊主茶屋」が強烈な印象だった。女郎買いの話だが可朝がやると陰惨な空気が漂った。やる気がないと「ほんまにほんまやからね」みたいな言葉を繰り返すだけで、ネタに入らず降りることもあった。

もともとは三代目林家染丸の弟子で染奴。その後破門になったが、スタートが吉本だったために米朝一門になってからも吉本の寄席に出ていた。

米朝一門では最初、小米朝を名乗ったが、師匠との仲は良いとは言えなかった。可朝と米朝が親しく話すところは見たことがない。

先代桂米紫と月亭可朝は実質的に預かり弟子であり、桂枝雀以下の内弟子とは肌合いが違っていた。
弟子に月亭八方などがいるが、師弟の縁は薄そうだった。八方は米朝一門という意識が強く、真面目に話を勉強していた。そのかいあって達者な噺家になったが、その芸道に可朝がかかわっているようには思えない。

ちなみに「月亭」は「桂」の脇の亭号だ。「三遊亭」の「橘家」に近い関係である。

正月恒例の米朝一門の寄り合いで、現桂米團治の小米朝に向かって「小米朝、君はほんまの息子やないねんで」と言ったときに、米朝の顔が引きつったのを覚えている。

1979年に日本中を震撼させた「梅川事件」が起こった。三菱銀行北畠支店に人質を取って立てこもり、4人を殺害した梅川昭美は、カンカン帽で黒眼鏡をかけていた。この時期から可朝をメディアで見なくなるが、この事件と関連性があるのではないかと思っている。

落語界ではほとんど存在感がなかったが、落語は上手かったと思う。立川談志が可朝を高く評価していたが、それは「業の肯定」という彼の理論に当てはまっていたからだろう。

上方落語協会で履歴書を書いてもらった時に「チョウセン国」と書いたのを思い出す。本名は鈴木傑、在日だったのか、単に半島生まれだったのかはわからない。横浜生まれとなっているが、その事情も私は知らない。

とにかく、高座に上がるだけで「危険な香り」がした。タブーに挑戦し、人をひやひやさせてやろうという邪悪な気配に満ちていた。偽悪的で黒光りがしていた。

こういう噺家はもう出てこないだろう。少しだがかかわりが持てて良かったと思っている。

IMG_2119



私のサイトにお越しいただき、ありがとうございます。ぜひコメントもお寄せください!

好評発売中