桂歌丸は、最後の「昔の噺家」だった。もうこういうタイプの噺家は、いなくなった。
横浜の女郎屋に生まれる。他の職業なら出自をはばかるだろうが、噺家としてはエリート筋だ。
15歳で5代目古今亭今輔に入門する。
率直に言って、師匠の筋は良かったとは言えない。今輔は人気者で大看板だったが、古典落語の主流派ではなく、芸の継承をしない師匠だった。今輔の師匠は上方落語の桂小文治、芸術協会の実質的なトップで、今輔はこの門に移って三代目桂米丸から、今輔を継いだが、師匠とは芸の上でつながりはない。派閥のようなものだった。
歌丸はその後、今輔の門下の四代目桂米丸門下に移った。今輔は米丸を史上初めての「純然たる新作落語家」として育てた。そこに古典一本の歌丸が弟子になったのだ。しかしその後、今輔と米丸は仲たがいをしたようだ。
このあたり、非常に分かりにくい。今輔と米丸の師弟関係は良くなかったようだ。
私は今輔を少し聞いているが、がやがやした声でお婆さんが当り芸だったが、癇癪持ちで、楽屋の評判は良くなかった。NHKで「灰になっても嫌われるから原爆ばばあっていうんだ」と言って番組を下ろされたことがある。

一門からは落語を教わることがなかった。歌丸の古風な色合いを気に入って落語を教えたのは、落語芸術協会ではなく、ライバルの落語協会のトップである六代目三遊亭圓生だった。昭和の落語家として稀代のストーリーテラーだった圓生に可愛がられて、歌丸は古典落語家として大成した。同時期に芸術協会の噺家として圓生に私淑した噺家には、故二代目桂文朝もいる。文朝は後に落語協会に移ってひと騒ぎとなったが、歌丸は芸術協会にとどまり、トップになった。

七五調に言葉を区切り、節をつけて話す「歌い調子」は、まさに圓生の引き写し。文朝もそうだが、預かり弟子の二人の方が、先代(五代目)圓楽や六代目圓窓などの直系よりも、芸風をよく受け継いでいた。上品で古風な芸風だった。

若い歌丸を高く評価したのが立川談志だった。「笑点」の前身である「金曜寄席」に歌丸を抜擢。談志とは対立して一時抜けるが、のちに三遊亭小圓遊との「犬猿の仲」が「笑点」の名物になる。
小圓遊が急死してからは、五代目圓楽に次ぐ実力者として絶対的な人気を博する。

Syoten2016


残念なのは、歌丸は古典落語の実力者でありながら、一般には「お茶の間の人気者」で終わってしまったことだ。実力的にも談志、二代目古今亭志ん朝、十代目柳家小三治などと肩を並べる存在だったと思うが、そういう評価はあまりなかった。

今日の死去のニュースでは「歌丸師匠の十八番、つる」と報じていた。「つる」は前座噺。寄席でちょこっとやるときのネタだ。歌丸は圓生譲りの「三年目」「鰍沢」から「真景真景累ヶ淵」、古今亭の系統の「竹の水仙」、そして「星野屋」「紺屋高尾」など登場人物が多い難しい噺を、わかりやすく、格調高く演じた。

芸術協会で、新作派の師匠を持ち、テレビの売れっ子になってしまったために「本格派の大師匠」であることが十分に知られなかったのは残念だ。

享年81歳、93歳になる師匠桂米丸は健在である。



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