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桂米朝と同い年だった。この師匠は、明石家さんまの師匠ということばかり喧伝されて、どんな噺家だったかの評価がほとんどなかった。
五代目笑福亭松鶴の弟子になって、兄弟子で、五代目の息子の六代目の初名である笑福亭松之助の名前をもらい、そのまま改名することなく通した。

六代目松鶴という噺家は極めて頭が切れた。戦後上方落語を継承した世代のリーダーとして、米朝、文枝(先代)、春団治(先代)ら同志に対して「生き残っている師匠たちの落語を、手分けして覚えよう」と呼びかけた。一人の師匠から2人の若手が同じ噺を習っていることを聞きつけると「なんという無駄なことをするねん、時間がないのに」と叱った。事実、戦前からの師匠たちは橘ノ圓都などをのぞいて、昭和30年の声をきく前に次々と死んでいったのだ。

六代目松鶴自身も、父や先輩の噺をどん欲に吸収し、自分のスタイルを形成していった。六代目松鶴は初代春団治を聞いている唯一の戦後世代だったが、それだけに「自らが売れる」ことにも意欲的だった。そのために、後年、スターになった三代目米朝との関係が悪化したのだが。

松之助は良くも悪くも次男であり、それほど上昇志向はなかった。敬愛する五代目松鶴の落語を口移しでそのまま覚えた。持ちネタを広げる意欲はそれほどなかった。
また宝塚喜劇を経て、吉本に入ったこともあり、松竹芸能系の噺家とは立場を異にしていた。ある意味で気楽な立場だった。この世代としては珍しい偉丈夫であり、女性にもてたと思う。夫人は宝塚歌劇の出身だ。

噺家笑福亭松之助の持ち味が注目されたのは、昭和40年代半ば以降。桂枝雀、笑福亭仁鶴、桂三枝などの次の世代が台頭してからだ。
松之助は五代目松鶴などの昔の噺家のネタを忠実に覚えていた。六代目松鶴は「松のところへ噺をつけてもらいに行け」と若手に命じた。松之助はいわゆる「稽古台」として、若手に噺をつけた。月亭八方や故桂吉朝などは、松之助の恩恵を被っている。

松之助は古い噺を脚色せず、そのまま伝えた。セリフは一本調子で、一見、下手のように見えたが、非常にわかりやすく、平明だった。声も大きく、素直な噺だった。そのうえで明るかった。若手の稽古台としては理想的だっただろう。

中年になるころから松之助は落語で遊ぶようになる。「自動車学校」という新作を花月でもかけたが、「あんさんも自動車学校に行きなはるか」「おや、おたくも」「へえ、ほな一緒に行きまひょか」「自動車学校へ行くその道中の陽気なこと」で、お囃子が入るのだ。

こんなばかばかしい演出ができたのは松之助だけだ。

ある時期から松之助は長唄に凝るようになったが、大ネタ「三十石」では、舟唄の最後に長唄「新曲浦島」をつなげて見事な噺に仕上げた。松之助のこの噺は何度も聞いたが、余韻が素晴らしかった。
「新曲浦島」は、本人の出囃子にもしていたから、好きだったのだろう。

上方落語界は、米朝一門とその他の一門での対立がどんどん深刻になっていった。反米朝の旗頭は兄弟子の松鶴(その背後に露の五郎)だったが、松之助はそれには同調せず、先代文我とともに親米朝の立場だった。そのこともあって、ずいぶん早くに上方落語協会を脱会している。脱会の電話は私が受けたのだが「あ、協会やめるから兄貴に言うといてくれ」というあっさりしたものだった。

何事につけ、モノにこだわらず、自由に生きる人だったのだ。
明石家さんまは、おそらく噺家にする気はなかっただろう。兄弟子の小禄に手を焼いたから。
松之助は自分の門弟には「明石家」をつけた。「笑福亭の分家が林家を名乗ってますやろ、それとおんなじ語呂やから明石家にしましてん」とほんにんからきいたことがある。しかし弟子を指導することには熱心ではなかった。実の息子も噺家にし、笑福亭梅之助、亀之助と名乗らせたが、長続きしなかった。

晩年は、そこにいるだけで存在感のある得難い芸人になっていた。これで大正生まれの噺家は東京の桂米丸だけになった。大往生だといえるだろう。

hongannji




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