「チキン南蛮を作ってくれい」このCMを見るたびに「おまえが作らんかい!」と突っ込んでいる人、多いのではないか。
音声認識の技術で携帯電話をかけたり、調べ物ができたり、メールが送信できたりする技術、NTTドコモなどを中心に今、盛んに広告している。
これは「便利」とか「快適」の範疇に属する技術なのだろうか。確かに「明日の天気は?」と聞いて「晴れです」とスマホが応えてくれれば、便利な気もする。手が離せないときなどは重宝するかもしれない。
しかし、こういう機能に依存してしまうと、「体が馬鹿になってしまう」危惧を抱かないだろうか。
私は、どんな機械でも、操作するとき「このボタンを押すと、こうなる」という因果関係を解っておきたいという気持ちがある。詳しいメカニズムはわからないにしても、機械を操作するという実感を担保したい。
言ってみれば、車を運転するときに、どんなふうにエンジンが動いているかは知らないまでも、ハンドルを握り、アクセルやブレーキを踏み、ギアを扱って車を運転したい、と思うのと同様だ(私は運転しないが)。「なっかめぐろアートギャラリー」とか言うだけで、すっと車が動き出し、目的地に着くのは、便利というより気味が悪い。信用できない。
音声認識でいろいろできるようになるのは、老人やハンディキャップを持った人にはありがたいことだ。コミュニケーションが飛躍的に向上するはずだ。そういう意味では、技術の進歩だと言えよう。
しかし健常者にとって、音声で機械が動くのは、進歩だと言えるだろうか。機械を操作するという体感覚が失われることにならないだろうか。
たとえば機械が故障した時に、「元に戻ってくれい」「ちゃんと動いてくれい」といってそうなるのならいいが、使い慣れないボタンを押したり、中を開けて見たりしなければならなくなったときに、音声認識に慣れ切ったユーザーはお手上げになるのではないか。
養老孟司さんのベストセラー『バカの壁』の「バカ」とは、現代文明に浸りきって、さまざまな体感覚が失われた状態を言う。まさに音声認識機能は、健常者を「少しバカにする」機能だと言えるのではないか。
この機能、日本の携帯電話メーカーが熱心に推進しているが、少し前の「3Dテレビ」と同様、いらざる機能の付加になるのではないか。
日本のメーカーは、いわゆる「ガラパゴス化」で行き詰ってしまった。つまり世界に通用せず日本のユーザーだけに特化した機能を付加しすぎて、深い穴を掘り、世界的な競争で敗北した。その機能とて、日本人がほしがったのではなく、トレンドを無理やり作って購入を促進したものだった。
この音声認識もその類ではないのか。屋上屋を重ねるような機能をつけるよりは、基本性能の向上、低価格化、さらには頑健さなどを考えるべきではないのだろうか。
「本当に役立つスマホを作ってくれい」