hibikore
スギちゃん」のような一発芸は、今の風潮のように思ってしまうが、日本ではかなり前からあったようだ。
 
江戸時代にも一発芸はあったと思われるが、はっきりしているのは、明治中期。東京に現れた「珍芸四天王」だ。
初代三遊亭圓遊「すててこ」四代目立川談志「釜掘り」、四代目橘家圓太郎「ラッパ」、三遊亭萬橘「へらへら」。名前からしていい加減だが、芸としても他愛ない。

圓遊は落語をやったのちに立ちあがってじんじん端折をして半股引を見せて、

「向こう横丁のおいなりさんへ 一銭あげて ざっと拝んでおせんの茶屋へ 腰をかけたら渋茶を出して 渋茶斜めに横目で見れば 粟の団子かお米の団子か お団子団子 そんなこっちゃなかなか真打にゃならねえ。あんよを上げてしっかりおやりよ、すててこすててこ」 と踊るというもの。

前半部分はわらべ歌だとされる。吉原の幇間がやっていたのを圓遊が真似をしたのだという。

私は彦六で死んだ八代目林家正蔵が寄席で演じるのを見たが、80歳を過ぎた正蔵は老耗著しく、よくわからなかった。
しかし当時の客は圓遊が登場すると「すててこ!」と掛け声をかけ、これを熱望した。噺家としても十分の技量だった圓遊だが、やむなく噺を短く端折って「すててこ」を踊った。
忙しいときには噺はせずに「すててこ」だけで済ませたともいう。また短い半股引を「すててこ」というのはここからきているという。

談志の「釜掘り」は、座布団を二つに折ったのを抱えて子供に見立て、「郭巨の窯掘り」の親孝行の故事にちなんで
「この子がいるから孝行ができない」といいながら踊ったという。(京都、祇園祭に出てくる山鉾、郭巨山にはこの絵が描かれている)。

圓太郎のラッパはさらにくだらなくて、当時の乗合馬車の車掌の真似をして
「おばあさん、あぶない、ぷっぷー」と小さなラッパを吹いたという。のちにこの馬車は円太郎馬車と呼ばれた。

そして萬橘は、下座で叩く太鼓の音に乗せて
「太鼓が鳴ったらにぎやかだ、大根が煮えたら柔らかだ、ヘラヘッタラ、ヘラヘラヘ」
と踊ったと言う。これも幕末の売り声を真似しているともいう。

どれも、今となっては何が面白いのかよくわからない。しかし、当時の聴衆は熱狂的にこれを支持した。

頭の良い人がいるもので、この4人を一同に集め「珍芸四天王」と言うイベントを催したところ、警察の巡査が出るような大賑わいになったと言う。

明治中期の東京には、薩摩、長州をはじめとして地方から人々が押し寄せていた。そういう新しい東京市民には、渋い落語は理解されなかった。単純でわかりやすい珍芸が受けたのだ。

このあたりのことは、六代目三遊亭円生『明治の寄席芸人』に書いてある。円生の息遣いが伝わる素晴らしい本です。



終戦後の東京も、地方から多くの人々が流入したが、この時期にも寄席に「歌笑純情歌集」の三遊亭歌笑、「綴り方狂室」の柳亭痴楽ら、一発芸の芸人が人気を博した。

従来の価値観が通用しなくなり、新しい階層が湧きかえるように出てくるときに、一発芸は生まれるのだろう。

テレビが娯楽の主役となるとともに、一発芸は毎年のように現れるようになった。

これは人々の価値観のスクラップ&ビルドが絶え間なく行われているからではないか。

明治期の「珍芸四天王」は明治後期には下火になったが、十数年はブームが続いた。

終戦後の一発芸は、主役の歌笑が進駐軍のジープに轢かれて死亡したこともあって下火になったが、数年は持った。

しかし、今の一発芸は1年もつか持たないかで消えていく。
異様なスピードであらゆるものを消費する「今」という時代の新陳代謝の激しさを象徴していると思う。

ところで「へらへらの萬橘」は、東京での人気が衰えるとともに大阪に移った。ここで南地の芸者衆に「へらへら」を伝授した。

南地を代表する料亭「大和屋」は、今は商業施設内の店舗しかないが、頼めば芸者衆による「へらへら踊り」を今も見せてくれる。
私は見たことがないが、芸者のお姐さんが逆立ちをするなど、すこぶる悠長なものだそうだ。
客は、これが明治の一発芸だとは思わないから、「伝統芸術」を見る気で神妙に「鑑賞」し、終わると拍手するのだそうだ。

ひょっとすると、スギちゃんの一発芸も、こういう形で伝承されるかもしれない。
百年後のお座敷で大学の先生が「平成時代の文化を今に伝える伝統芸」と紹介し、六代目スギちゃんが登場し、「ワイルドだろー!」とやるかもしれない。

客は神妙に鑑賞をして、終わると「感動しました」くらい言うかもしれない。

「芸」というものは、所詮そういうものかもしれない。

長生きをして六代目スギちゃんに「本物は、そんなもんじゃなかった」と言いたいが、無理だろう。

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