hibikore
大飯原発の稼働が決まった。関西圏の首長はみんな反対の意向を示していたのだが、あっけないほどに賛成、あるいは黙認に転じた。


関西の首長でも、ニュアンスは微妙に違った。
京都府の山田啓二知事は「関西圏の行政、住民の同意、納得が得られていない」ことを問題にした。
滋賀県の嘉田由紀子知事は「琵琶湖、環境への安全性への不安」を口にした。
橋下徹大阪市長は関西電力の筆頭株主の立場で「脱原発」を関電に迫っていた(余談だが大阪だけが府知事ではなく、市長の意見が先に載る。言うまでもなく大阪府の松井一郎知事は、橋下氏の盟友だからだが、二人の関係はロシアのプーチン大統領、メドベージェフ首相とそっくりだ。胡散臭い)。
 

三者三様、官僚上がりの山田知事は有権者の顔色を気にして慎重なポーズを示していただけだ。市民派の嘉田知事は、支援者への建前上再稼働は口にできない、しかしこの二人の腹の底は、原発容認ではないかと想像できた。ただ、橋下氏だけは、腹の底が読めなかった。橋下氏は、本気で関西電力に迫っていただけに、本当に脱原発を推進するのかもしれないと思えたが。


橋下氏は、政府側の対応に「負けた」といった。細野豪志原子力担当大臣が『政府の再稼働判断をめぐり「現在は暫定的な安全基準だ」と明確に認めたことが大きかった』と言った。要するに、政府が予想以上に譲歩したことで、自治体側も容認せざるを得なくなったということのようだ。


細野豪志という政治家は、少し前なら山本モナと遊んだ男として記憶される程度だったが、今や総理候補とも目されている。人材不足だ。


西川一誠福井県知事が慎重な姿勢を示しているため、大飯原発再稼働はまだ時期が決まらないが、三人の地方政治家は、「原発慎重姿勢」という看板をここで下すことが出来た。
三人は「原発再稼働」という産業界からの要請に応えなければならない、しかし有権者の支持も失いたくない、というジレンマにあったのだが、落としどころが見つかり、うまく立ち回ることが出来てほっとしているだろう。

 

しみじみ思うのは、日本社会では「原発反対を本気でいうのは、まともな人間ではない」という通念が定着しているのだということ。
「原発反対」は、共産党や左翼や環境保護団体など、日本の産業界に貢献していない連中のたわごとだ、相手にする必要はないと、世間は思っている。

何も知らない女、子供が、原発反対を言うのはいいとしても、まともな男が本気でそれを言うのはあり得ない、と思っているのだ。


タレントの山本太郎が受けた仕打ちは、それを物語っている。だれも明確には口にしないが、「原発反対」なんていう人間は、昼日中、大通りを歩いてはいけないのだ。世間様に弓を引く不忠者、なのだ。

 

70
年安保までの日本には、左翼と右翼の深刻な対立があった。アメリカの核の傘の下での繁栄をとるか、独立独歩の道を行くか。いい大人が政治やイデオロギーで口角泡を飛ばす時代があったのだ。


しかし、経済成長によって不公平感はあったものの、みんなが豊かになっていき、政治の季節は終わりを告げた。


バブルとは、日本国民全体に、体制側、産業界からの「わいろ」がいきわたった時代ではないかと思う。この繁栄を持続させるためには、産業界の意向に水を差すような意見は述べてはならない。そんな意識が日本人に定着したのだと思う。


以後、だらだらと緩い坂道を下り落ちながら、日本国民は従順で、あまり自分たちの将来を気にしない国民になった。


深刻な原発事故という事態を受けても、日本の大人たちは意識を変えていない。
原発事故の再発の可能性を考えていないわけではないが、それは「コスト」として原価に算入してしまえば、それで済むと思っている。実際には家を追われたり、風評被害をこうむったり、深刻な被害があるのだが、産業界の人々は、自分がその当事者にならない限り、「金で済ませられる」と考えている。そしてそれが「まともな考え」になってしまっている。


隣の芝は青いと言うが、ドイツでは福島第一原発の事故を受けて、「脱原発」を促進することを決めた。長期的に見てリスクが高いと判断したからだ。


欧米では「脱原発」はまともな論議の対象となっている。容認派と脱派は真剣な議論を戦わせている。


日本が、かくも長期間、経済的に低迷し、世界の国々から「軽くあしらわれる」ようになったのは、いい大人たちが現実を直視せず、誰かに責任を預けて、時間稼ぎをすることを続けてきたからだと思う。

原発にかかわらず、自分たちの進路を真剣に考えないと、日本は、国全体が漂流してしまうと思う。
 

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