1998年頃、私は京都の裏千家さんの仕事をしていた。お家元の次男の伊住政和さんの下で、京都のコンテンツ(その頃はそんな言葉はなかったが)を編集して、新しいビジネスを生み出すと言う面白い仕事だった。
その一つとして、NTTドコモさんの携帯電話で、京都の有名寺院を紹介すると言う仕事をさせていただいた。題して「京都お寺紹介」。
今思えば、時期尚早の感が強い。当時は携帯と言っても単なる電話で、お寺情報は音声案内で聞かせていた。ご住職の法話と解説で2分程度。それでも最後まで聞かないと情報はとれない。今ならテキストと画像、動画などでもっとリアルに情報を送ることが出来たはずだ。
それでも、お寺の前に立って「京都お寺紹介」に電話をかけると、住職が自ら話をしてくれるというのは画期的だった。裏千家さんの名前があったから、京都の有名寺院がすべて協力してくれた。諸事保守的なお寺さんでは珍しいことだった。
最初に取材に行ったのは、清水寺。「漢字検定」の「今年の漢字」で有名になった森清範貫主にお話を伺った。森師は日本を代表する高僧でありながら、新しいことにご理解があり、また気さくな方だった。マイクでお話を録音するときも「マイクの持ち方うまいでっしゃろ、カラオケで慣れてるから」と周囲を笑わせたり、サービス精神もたっぷりおありだった。
清水寺を皮切りとして、京都の有名寺院はほとんど回った。同じ寺院と言っても、雰囲気や対応は寺院によって全く異なる。妙心寺、万福寺、相国寺といった禅刹は、お坊さんは法衣ではなく作務衣姿で出てこられ、体育会系の男くさい印象があった。また、知恩院など浄土系のお寺は組織としてきっちりしている感じだった。優しい対応が心に残ったのは、真言系のお寺。法華系(日連系)のお寺は、質実な感じがした。
京都と言う町は、奈良仏教を除く日本の大部分の宗派の寺院が、本山や重要な寺院を置いている。京都の狭い町を回るだけで、宗派を代表する高僧にお目にかかることが出来た。こんな町は他にはほとんどない。
本当に貴重な体験をさせていただいた。
雪の比叡山延暦寺 根本中堂の大屋根が見えている
いくつかのお寺を回る中で、強烈に印象に残る出会いもあった。
その一人が、比叡山延暦寺でお目にかかった中年の学僧だ(比叡山は大津にあるが、京都の鬼門にあって京の町を護持する寺院なので、京都のお寺に含めた)。
この方は有名な百貨店で社長室長を務められた方だった。いかにも有能そうで、精悍な面持ちをしておられたが、ある日、突如「今、こうしてちやほやされているのは、自分ではなくて、自分の“身分”だ。名刺の肩書だ。自分には何もないのではないか」と思うようになって、延暦寺に飛びこんだという。凄まじい発心。
中年とはいえ、お寺での序列は最下級。この方はそれこそ不眠不休で修行した。昼間は経典を読み、夜になると歩いて山を越えて京都の街中に行き、そこで身寄りのないお年寄りの身の回りの世話をする。そしてまた歩いてお寺に帰ってくる。そんな生活を送っておられた。同時に、俗世で養っていた家族には縁切りをしていた。その非情さにも息をのんだ。
取材の日は雪が霏霏として降るような日だったが、その学僧は裸足だった。かかとにできた地割れのような大きなひびに味噌をすりこんでおられた。
比叡山浄土院では「十二年籠山」といって、一度修行に入れば、親の死に目にも会えない厳しい修行があるが、それ以外にも恐ろしい決心をして僧侶になる人もいたのである。
この学僧は仏教経典に関する貴重な論文を著したあと、中部地方のお寺を立て直すために、本山から小さな仏像を携えて赴任された。着任後に葉書をいただいた。
私は、以後、お寺への認識を改めた。万事快適さを求める世の中にあって、お寺には一個の有能な人物にここまでの決心をさせる力があるのだ。特に比叡山には、あこがれに近い感情を抱くようになった。
これが、お寺について考え始めた第一歩だった。
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訪問自体は偶然というか気まぐれで、自身の進路に悩んでおり毎日言いようもない焦燥感に駆られていた時にふらっと立ち寄りました。
桜が見ごろの時期で、境内に甘茶(飲んだ後、息を吸うと空気が甘く感じるお茶)がポットに入ってサービスで置かれており、何気もなしにそれを飲みました。すると空気が甘く感じるのと相まって、心もじわりと解きほぐされていくのが感じられました。
この日があって今の僕があります。今は舞台俳優を目指し上京し、俳優養成所に通っています。話にあった方のように寺で厳しい修行をしているわけではないですが、同じくお寺に救われた者の一人です。