六

 

楽屋で皮のジャケットに着替えた喬志師匠が待っていた。

「良かった。ちょっと行こか」

 〝祇園の花見小路の入り口の、芸妓あがりの姉さんがやってる小粋なスタンドバー。ときどき舞妓ちゃんもやってくるし、師匠の馴染みでなければ、おれも行きつけにしたいくらいや〝
 

  「わしなあ、医者から精密検査受けるように言われてるねん。芸能人保険使うたことないし、定期健診してなかったんやけど、腰が痛うて医者に見せたら『師匠、こら徹底的に見なあかん』いわれてな」


 〝いきなり何の話や、酒がまずなるがな〝


  「知っての通り、わしにも六人弟子がおる。けど、みんな落とし噺は何とかなるけど、じっくり聞かせる噺や芝居噺はどいつも持て余すのや。勘は良うても、噺をよう組み立てられへんかったり、仁やなかったり。その点、おまはんは頭が違う。覚えもええし、姿もええ」


 〝何や、風向きがかわってきたな。何が言いたいねん〝


「おまはんが、わしの噺、勝手にやってるのは知ってる」

 
 〝ぐ、喉がつまるわ!〝


 「でもな、わしが直に稽古つけたった弟子より、お前の方が出来がええのや。何というか、生まれついてのもんというか」

 「栄春、俺のとこへ通ってみいへんか。実は栄生師匠にも許しは得てあるねん。今のおまはんの噺は、やっぱり自己流のところがある。力の入れ方も微妙に違う。器用なだけでやってしもてる。わしがもう一回仕込んだる。どうや」


「人間、ちょっと体の具合悪い言われたら、弱気になってしまうもんで、ま、ええ機会やから、お前にわしの噺、譲ろうと思てるのや。どうや栄春」 


 

 

    七

 

 〝あのいかつい喬志師匠がぐぐっと迫ってくるのから、どうして逃れたのか、あまり記憶にない。確か、稽古に上がる日をええ加減に約束して、ようやく開放されたような。親父と一緒にドイツに行く日が迫っていたのを幸いに、「日本脱出」としゃれ込んだ〝

 
〝ベルリンでの学会とパーティは、ほんまに場違いやった。日本の伝統芸能の伝承者や、と紹介されたときは冷や汗が出たで。で、早々に抜け出して、ウイーンで沙耶と待ち合わせして。それからロマンチック街道としゃれ込んだのやが、沙耶があれほどつまらん女やとは思わんかった。三日で飽きて、金をやって分かれて、パリやロンドンや、ふらふらしてるときに、偶然、知り合いのテレビ関係者に会うた。「喬志さん、入院しててけっこうヤバいの知ってる?」心臓がどきーん、言うのが聞こえた。こら帰らなあかん。その日のうちに飛行機に乗って、帰途についた〝


 〝帰ってきても、見舞いに行く勇気がない。一門の弟子にそれとなく聞いても、喬志師匠がおれのことを何か言うてるようでもない。気持ちが悪い。師匠の出番は全部キャンセルになってる。ほんまにあかんのやろか?〝

 

    八

 

〝三ヵ月後、喬志師匠が快気祝いを兼ねて、高座復帰するという話を耳にした!ほっとした。今からでも許してもらお。これから稽古つけてもらお〝


 復帰の高座は、小さなホールの落語会。受付に弟子がいたので、つかまえた。


 「おい、師匠もう入ったはるか」


 弟子の顔がひきつった。


 「楽屋で寝たはります」


〝まさか?不吉なものが鳩尾を押した。泳ぐように楽屋口に駆け込み、師匠の部屋へ〝


 〝浴衣姿で楽屋に横になっていたのは、半分ほどの嵩になった師匠やった。驚きと共に、上ずった声がでてしまった〝


 「前から勉強させてもらいます!」


 〝空気がかすかに動いて、師匠が答えた気配がした。でも、声はしない。気がつくと、さっきから鏡台に映っていた師匠の顔が、じっとオレを見つめていた〝


 前に回った。正面の座席の後ろで、師匠の出を待った。


 前座が下りた後に、緞帳が下りて、何かを運び入れる気配がし、出囃子が鳴って再び緞帳が上がった。板付き。まるで、脱色したような真っ白な噺家が、ゆっくりと声を出し始めた。


  〝わ、「立ち切れ線香」や。あんな大ネタできるのやろか。あ、セリフ飛ばした。くすぐりも聞こえへん。あかん、あかん。ぼろぼろや。筋も所作も、ほとんどわかれへん。でも、何やろ、この迫ってくるものは。高座から、何か伝わってくる〝


  〝ほんまに師匠の最後の高座や。何かでけへんのか。何かつかまれへんのか。あかん、あかん〝

 かすかな声で、喬志が下げを言った。


「ちょうど線香が・・・・・・たちぎれました」

 
 栄春は、巨大な建築物が目の前で焼け落ちるのを見た。そして、叫び声を上げた。

了 


 

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